ご無沙汰いたしております。勝谷誠彦の弟の友宏です。3回忌までに原稿書きます、とヨロンさんに啖呵を切ったものの、コロナ禍で町医者として対応することに忙殺され、すっかり脱稿が遅くなってしましました。「締切だけは遅れたことないんだぞ」と兄の声が聞こえてくるようで、申し訳ありません。11月15日に家族だけで(私の家族及びAさん&兄の2人の娘達)3回忌が滞りなく済みましたことを御報告申し上げます。さて、弟が語る「勝谷誠彦を育んだもの〜誠彦の弟から見たその生涯〜」も最終話になりました。私の知らない兄の世界、弟の目に断片的に映った内容となりますので、約20年分が1話となりますことご容赦願います。

 1月30日に満を持して辞表を文言春秋社に提出、誰からも引き留められることなく兄は無職となった。巨匠、司馬遼太郎先生が逝去されたのは、その直後という頃である。「筆一本で何の問題もなく生活できる」と嘯いていた誠彦にとっても、入出国審査で、職務質問で、そして名刺に書く肩書きがないことで、暇を持てあます時間もあったようだが、そこは転んでもタダでは起きぬ兄のこと、「失業論文(浪人記者ノート)」を出版、帯にはちゃっかり花田紀凱さんから「編集部にコイツがいると必ず雑誌がつぶれる!」とのコメントまで頂戴しているのであった。久しぶりに失業論文を読んでみると、当時の自分の肩書きを「紀行家」と名乗っていたことを思い出した。確かに兄は「ジャーナリスト」と呼ばれることを毛嫌いし、「コラムニスト」は許容範囲、「写真家」と呼ばれるとしめしめとほくそ笑み、「作家」と呼ばれたことがないことを愚痴っていたものである。
 弟として兄の書いてきた数々の著作を読み返すと、個人的には紀行文こそ兄らしく、虚飾のない言葉がすーっと頭に入ってくる印象がある。中でも好きなのが、失業論文の前後に出版された「ベトナムへ行こう」(文春文庫—ビジュアル版)や「いつか旅するひとへ」(潮出版社)である。後者のあとがきはシチリア島のタオルミーナ、最後の家族旅行の思い出の地で書かれている。雑誌「フラウ」の連載をまとめた内容ではあるが、後のうどん屋を経営するきっかけにもなった香川行から始まり、角館、能登、黒部からベトナム、エルサレムまで珠玉の紀行文が並んでいる。あの兄特有のひねた世間を斜めに見る視線がなく、真っ直ぐに現地の風に身を任せ、酒を傾けながらのご機嫌な様子が文面から伝わってくる。一緒に旅をした面々も田中小実昌さん、鮎川哲也さん、降旗康男さんなど豪華であるだけでなく、一話毎の最後に記された一句も兄ならではのタッチで詠まれている。


立ち枯れて この世の曙光 抱きしめぬ  誠彦 (上高地にて)


 その後、ご存知のように文春時代に宮嶋さんと回った湾岸戦争の話から南極までをまとめた「旅。ときどき戦争」や鉄ちゃんにも好評の「勝谷誠彦の地列車大作戦」など、誠彦らしい出版が相次ぐとともに、「勝谷誠彦の××な日記」の連作も開始されたのである。西原理恵子さんの「鳥頭紀行 ジャングル編」には、家を乗っ取った弟として私も登場する他、ラサールと灘の対談として「1.5流が日本を救う」といったラサール石井さんとの対談本、小沢一郎さんとの対談も含む「破壊者〜日本を壊す9人と私」なども書店を賑わせることとなる。2007年からは「たかじんのそこまで言って委員会」に、大阪府知事選に出るため降板した橋下徹の後任として出演するようになり、TVへの露出が増えるようになったのは皆さまご存知の通りである。「お兄さんって、普段どんな感じですか?」というのは弟としてよく聞かれる質問であるが「いや、あのまま、見たままですよ。但し、家では放送禁止用語も混じっているのでもう少し過激ですかね」と答えさせていただいていた。事実、TV局へ向かうために我が家に泊まって、父と夜飲んで、翌朝にTV局へ兄を送りこむこともよくあったが、政治絡みの最新の話題や、兄独自に入手した情報について、父の真面目な受け答えから得た感触をTVの番組の中で活用していたケースも少なからずあったように思う。番組の流れで取材が当家まで及び、自宅に戻るとTVクルーが自宅内に居たことも一度や二度ではなく、ハイヒールモモコさんに阪神・淡路大震災後に建て直した拙宅を訪れていただいて中を解説していただいたことも記憶に新しい。特に兄がマスコミ界からほぼ閉め出された後もお世話になったサンテレビの「カツヤマサヒコSHOW」は、編成部長の久保仁さんと、相方を務めていただいた榎木麻衣アナウンサーがおられなければ、オンエアされることもなかったものと思われる。番組の生い立ちについては、久保さんが兄を偲んで一筆書いて下さっているので、是非読んでいただきたい。https://katsuyamasahiko.jp/memorialk/


 よくも悪くも「ひとたらし」の兄であった。花房観音さんがよく書いていただいているように、兄と一緒に呑んで、サングラス越しの垂れ目に騙されて安請け合いして、後で苦労された仕事仲間の方は数え切れないものと思われる。確かに兄のキャラが憎めないのは理解できるが、その話している内容がどこまでが真実であったのかは、血を分けた弟といえども分からないことが多いというのが本音である。時々、かなり話を勝手に膨らませて法螺に近い内容になっていたことも事実ではあるが、「安倍さんから電話があって」というのは嘘ではなく、首相官邸で数名の議員も交えて膝詰めで日本の未来を語っていたことは間違いない。安倍さんが1回目の政権から下野した後、やしきたかじんさん、三宅久之さんらと山口の温泉に浸かりながら励まし、第2回の長期政権につながるきっかけを作ったのも事実である。ケチで金銭管理はルーズな癖に、お金には潔癖なところもあり、いわゆる接待やおごられることを極端に嫌うのも兄の一面であり、「友宏は薬屋から金貰ってのうのうとしてるんじゃないだろうな」とよく釘をさされたものである。兄が本当に清廉潔白であったのか、今となっては知るよしもないが、本人がその心意気であったことは間違いない。


 人の好き嫌いも非常にはっきりした兄であった。安倍晋三、小沢一郎、辻元清美、蓮舫など政治家の皆さんと交流があったことから、右翼からも左翼からもネトウヨからもネット上で罵倒されることの多かった兄だが、本人は我関せずで、好きなものは好き、の姿勢を最後まで崩すことはなかった。要は団体や組織には興味がなく、個人として共感が持てるかの一点で付き合い、私利私欲がないため皆さんと肝胆相照らす仲で関係が持てたのではないだろうか。××な日記では、兄独特の反射神経で状況に応じたコメントを行っているため、かなり年月の違うところの表現で齟齬がある、といった指摘をして炎上を図る輩も少なくないが、あれだけの文章と情報を瞬時に処理して毎日アップしてきた兄の努力を間近で見てきた身としては、「出来るものならやってみろ!」と声を大にして言いたい。あれだけのボリュームの文章をこの時間でリアルタイムに書き続けてきた書き手は世界広しといえども皆無ではないだろうか。「がらが悪い」「下品」などと評され、あなたの嫌いなコラムニストNo.2に輝いた兄であったが、そのような評判は歯牙にも掛けず、バカとの闘いを本人はそれなりに楽しみながら続けてきたように思う。


 さて、兄の書物やTV出演の内容は、残された文章や映像で皆さんの感性で味わっていただくとして、ヨロンさんからの宿題でもある兄の晩年の様子について触れていきたい。


 2015年3月7日朝、前日の夜診を父に代診を頼んで新潟で講演を終え、新潟空港へ向かう車の中で、妻から電話が入った。「おとうさんが倒れて、兵庫医大へ救急搬送されたの。今、おにいさんに手続きを手伝ってもらっています。いつこっちへ戻れる?」父は毎朝の散歩を日課にしており、この日もいつも通り出掛けたものの、なかなか戻ってこないため、心配した妻が父のスマホの位置を探したところ、位置情報が武庫川の橋を渡った向こうにあることに気付いたため、スマホに電話をしたところ、路上で倒れていた父が身元不明のまま救急搬送されて病院にいるという事情が判明したとのことであった。ちょうど土曜日の番組に出るために拙宅に泊まっていた兄も同乗して兵庫医大に行けたので、救命措置の同意書等の書類への署名等に役立ち、治療をスムーズに開始することが出来た。しかしながら、路上で30分近い心肺停止状態となっていたため、脳の低酸素状態のダメージが大きく、いわゆる植物状態で人工呼吸器をつけたまま1年9ヶ月の闘病の後に、この世を去ることとなってしまった。私は毎日父の顔を見に病院へ顔を出し、兄も時々見舞ってくれていたが、兄の最もよい理解者で聴き手であった父が植物状態に陥ったことは、誠彦のその後の心身の状態に大きな影を落とすこととなった。番組をご覧になっていた皆さんはお気づきのことであったと思われるが、この頃から明らかに兄の頭の回転が鈍り、呂律も徐々に回らなくなり、番組の降板、執筆活動の中止が相次ぐこととなる。これは紛れもなく、アルコール多飲、依存症による脳のダメージに因るものであった。2016年11月1日、昭和2年生まれの父・積治は88歳の生涯を閉じた。11月3日行われた告別式では、誠彦が弔辞を述べ、会場には安倍首相からの花輪も飾られた。積治の戒名は医徳院積善居士、十数年前に先に逝った愛妻の里子と共に鷲林寺に葬られた。


 「政治家と宗教家だけにはなるな」は積治と里子の口癖であった。兄の意見をビールを飲みながら聞き続けた父が倒れ亡くなったことは、兄がこれまで封印してきた重石が無くなったことを意味し、2017年6月15日公示の兵庫県知事選挙に立候補するきっかけとなった。私が兄から立候補すると正式に聞かされたのは、公示日の1週間ほど前であったが、両親の遺志を知る身としては、両手をあげて賛成、応援するとは言えず、公示後も時々選挙事務所に差し入れに行かせていただく程度の協力しかできず、兄が亡くなった後に、実に多くの皆さんに支えられ、お世話になったことを知り、今さらながら唯々頭が下げるばかりである。一方、誠彦本人はと言うと、父の没後半年間、廃人のようになり、布袋さんのようなお腹になっていたものが、選挙期間中に真っ黒に日焼けして、声を枯らして兵庫県下、津々浦々、全市区町村を回ったため、身体も絞られ、心身共に健康に近い状態にもどりつつあった。髪を黒く染め七三分けのスーツ姿の選挙ポスターは不評であったが、兄の選挙演説には人が集まり、公民館等を貸してもらえない嫌がらせにもめげず、明るく楽しい兵庫県を作るべく弁舌をふるって回った。結果はご存知のように646,967票で2位落選、共産党を除くオール与野党相乗り、医師会も含めた支持団体多数の現役を向こうにしての大善戦ではあったが、見事に散ったのであった。サンテレビの中継で、向けられたマイクに対しての誠彦の第一声、「ああ、楽しかった」の一言が選挙戦の全てを物語っていた。


 以後、再び廃人に戻った兄は、明らかに酒量が増え、何も食べずに酒だけ飲み続ける生活に戻っていった。拙宅にもたまに寄って、うちの家族と食事をすることもあったが、「焼肉行こう」という本人の意思に従い一緒に行った焼肉屋でも、ため息をつきながら「酒も飲めないよ。僕に気にしないで食べてよ」と箸も割らない状態で、私も家族も何ともしようがない状況が繰り返された。父の一周忌も過ぎ、2018年に入るとヨロンさんやT-1さんから、兄のお腹が異様に出てきたけれど大丈夫でしょうか、という問い合わせが入るようになってきた。肝硬変に因る腹水の疑いも強いことから、何度か専門施設に紹介状も書いたほか、本人にも病院での精査を勧めたが、尋常性乾癬の治療で少し大学病院で加療した以外は、酒以外の栄養が偏り過ぎて脚気になったぐらい(本人は「かっけい(かっこいい)だろ」と自慢していましたが・・)で、本格的な診断・治療は出来ず、拙宅に立ち寄った際でも採血は断固として拒否し続けていた。選挙に出たことで、全ての番組や連載が中止となり、執筆活動も××な日記がやっとの状態になり、この執筆さえも危うい状況になったことから、2018年8月にT-1さんと相談の上、兄と難波の地酒の店で一杯飲む約束を取り付け、その際に強引に紹介状を渡して東京の医療機関受診させる算段を取り纏めることに成功した。銀座の肝臓専門のクリニックを紹介したのであるが、受診時にはAST, ALT, γGTPなどの肝酵素の異常が著しく緊急入院の適応と判断され、そのまま東京済生会病院中央病院へ入院、そこでも状態が悪すぎて対応できないということで、慶応大学病院へ転院することになった。診断名は「重症型アルコール性肝炎」、生命予後は非常に悪いことが主治医からの説明された。いわゆるアルコール性肝炎や劇症肝炎(これもかなり重症ではあるが)に比べ、1日5合以上の大量飲酒者が陥る重症型アルコール性肝炎は、黄疸、下腿浮腫、腹水、発熱、意識障害などを引き起こし、多臓器不全から1ヶ月以内死亡も高率という致死的な疾病となる。慶応のT先生は非常に真面目で温厚な先生で、現在考え得る治療を全て行っていただいたが、唯一で最善の治療は「禁酒」であることを繰り返し説明されていたことが頭に焼き付いている。既にアルコール依存が出来上がってしまった独居の兄の場合、自宅で禁酒生活を行うことは困難と考え、拙宅で一緒に過ごす体制を整え、我が家にある全てのアルコールを処分(または隠匿)して、退院してきた兄との生活を1ヶ月以上行った。こちらも開業医で妻も事務の手伝いをしているため、兄が一人で酒を買いに出ないように扉が開閉するとインターホンが鳴るようにセットしておくと、鞄を幼稚園掛けして玄関に立っている兄を発見することが毎日のようであった。「いや、ちょっとそこまで散歩に行こうとしただけ」とばつが悪そうに苦笑いして引っ込む兄であったが、ほぼ24時間、兄を監視する状態を家族全員に強いる大変な生活であった。その間も、何度も慶応大学病院、尼崎市内のA病院にも入院加療をお願いし、東京ではヨロンさんや、T-1さん、元妻のAさん、灘の同級生の皆さんにも本当によく面倒を診ていただきながら、何とか病院と自宅での療養生活を続けていた。その成果もあり、10月20日は車椅子ながら尼崎市の市民医療フォーラムにも出席(https://www.facebook.com/katsuyamasahiko/posts/1810756658979119?comment_tracking=%7B%22tn%22%3A%22O%22%7D)、10月28日の積治の三回忌までは無事に過ごして、治療目的にて、尼崎のA病院を経て慶応大学病院に再入院の運びとなった。ここでは、顆粒球吸着療法という最新の治療も実施いただき、当初の入院時よりはかなり数値も改善したと伺っていたが、本人が病院を抜け出し、酒を大量に買い込み、病室で酒盛りしていたことが判明、強制退院の運びとなった。11月23日の連休を利用し、慶応大学病院へ兄を迎えに行った私は、T-1さん運転の軽ワンボックスで羽田へ向かい、腹痛を訴える兄を車椅子で機内へ運び、尼崎のA病院へと転院させた。転院後まもなくより容態は急激に悪化、11月26日にはICUへ入室となり、循環・呼吸動態も悪化、昇圧薬や人工呼吸器装着まで行われたが、2018年11月28日未明に還らぬ人となった。慶応に入院当初に撮った腹部CTでは、右腹部の5分の4は肝臓で覆われるほど肝腫大が進行、食道静脈瘤や凝固・線溶系の異常なども目立っていたことから、急変時には血栓・塞栓症による消化管の虚血が進行、最終的には播種性血管内凝固症候群(DIC)も併発し、多臓器不全(全ての臓器に十分な血流や酸素がいかない状態)に陥ったのではないかと考えている。A病院の先生方にも手を尽くしていただいたが、病状の進行は早く、原疾患で予備能が無くなった状態では回復させようもなかったと推察される。


 誠彦が旅立った当日の夜に通夜式、翌日の13時から告別式が開かれ、灘の同級生の皆さん、文春でお世話になった花田さん、突撃部隊同志の宮嶋さん、TVでお世話になったハイヒールのリンゴさん・モモコさん、サンテレビの久保さん・榎木さん、同級生の白井文元市長・・・本当に多くの方にご列席を賜った。そして吉本興業の皆さんにはマスコミ対策などを仕切っていただき、初めて受けた囲み取材の中で『太く短い人生でしたが「ただ生きるな 善く生きよ」を座右の銘としていた兄に悔いはないと思います』と述べさせていただいた。人生50年と戯れ言のように嘯いていた兄が、父から2年で57歳の生涯を閉じることになろうとは、天国の積治も里子も苦笑いしながら、こう言って酒を酌み交わしているに違いない。「だから選挙になんか出るなって言ったでしょ」と。


 勝谷誠彦、享年57歳。垂れ目の笑顔で「まあ一杯」と盃を出す兄の姿を、何かのきっかけで、ふと思い出していただければ、弟冥利につきる限りである。