その2 幼少期~中学入学

母子共に恙なく出産の時を迎え、産婦人科を替えた積治も胸をなで下ろした。一人目の待望の男児を亡くし傷心の里子も、今回は安心して我が子を抱くことが出来、夫婦揃ってあんなに忙しく楽しい時期はなかった、と積治は後述する。医院もようやく軌道に乗り、誠彦の世話は里子と住み込みの看護師達が交代で務めていた。医院の受付のリノリウムの床の上で、看護師経ちの足下でコロコロと転がされながら誠彦はすくすくと成長する。子供の躾のためには、テーブルマナーも必要と考える積治は、幼子を連れてホテルに行くことも厭わなかった。大阪のロイヤルホテル、プラザホテル、神戸のオリエンタルホテル、六甲山ホテル、そして兄の日記によく登場する宝塚ホテルなどは行きつけであり、離乳食は宝塚ホテルのポタージュだったというのは兄の空想ではなかったようである。


積治は当時、医師会の活動には直接タッチしないものの、内科医会の会長や代議員会の議長などを務めるようになり、当時会長を務めておられた瀬尾攝先生の自宅で開かれる新年会などにも毎年一家で出席していた。こうした新しい医師会での家族ぐるみの付き合いや、陸軍経理学校時代からの朋友からの影響もあり、子供の教育には人一倍力を入れる若夫婦が考えたのは、幼い誠彦を越境入学させることであった。里子が教えていたバレエの教室の関係もあり、二人が選んだ誠彦の入園先は尼崎の西隣りの西宮市にある「上甲子園幼稚園」であった。遣り手の園長が経営する同園は、当時最先端の子供教育を実践していたほか、ピアノや絵画などの各種教室も充実しており、誠彦もオルガンからピアノ、絵画などを習うようになっていった。当時の誠彦に様子について、積治は次のような話を繰り返し我々夫婦に語っている。「あいつは、あの頃から集団行動できなかったな。友達がいっせいにわーっと動く時に一緒に動けないんだ。行きは何とかみんなについていくんだが、帰りに足がもつれて転んで「わーっ」で泣くんだよ。で、誰かが助け起こしに来てくれるまで、そこでバタバタしながら泣いていて、起きないんだよ。」当時の若夫婦は、様々な社交の場に顔を出していたほか、自分たちでも大阪や神戸のダンスホールやビヤホールなどに盛んに出掛けており、この際には看護師達に子守を頼むか、アリメジンという抗ヒスタミン剤のシロップ(眠気が強い)を多めに飲ませて眠らせていくか、隣りのMさん宅に誠彦を預けていくなどして出歩いていた。このMさん宅に預ける時のエピソードも積治はよく紹介していた。「お隣さんとのフェンスに穴が開いていて、そこから牛乳ビンを持たせて誠彦を預けるんだよ。ところがあいつは頭がでっかくてバランスが悪いから、フェンスのところで転んで牛乳ビンを割ってしまうんだな。ビービー泣きながら、お隣さんが気付いて助けてくれるまで、絶対に自分では起きてこないんだ。」三つ子の魂百までと言うが、この時の兄の性分は死ぬまで変わらなかったように思われる。恐らく、最後に倒れた時も、誰か助け起こしてくれるだろうと思っていたのではないだろうか・・・。


当時の誠彦は「ぼくちゃん」と呼ばれていた。3丁目の夕日、高度成長真っ盛りの時代である。国鉄立花駅の南側には、南立花市場があり、小柄ながら一目を引く雰囲気の母に連れられて買い物に行く兄は「勝谷先生とこのぼくちゃん」であり、地元の皆さんのマスコット的存在であったようだ。行きつけの八百屋やお好み焼きの「さがら」などでは、「ぼくちゃん大きゅうなったな」と例の頭を撫でられる光景がよく見受けられた。ちなみに兄の三角頭と斜視は生まれつきである。母は頭の形を何とかしようと枕なども工夫したようだが、これは終生変わらなかった。斜視については、中学時代に一度兵庫医大で矯正手術をしており、幼少期よりは改善している。この頃は成人期よりも少し三白眼、外斜視に近い眼であったと記憶している。兄は両親のことを「パパ」「ママ」と呼んでいたが、天然パーマのオールバックでダンディなパパ、ポニーテールの細身で格好いいママは、誠彦にとっても自慢の存在であったようだ。そんな3人の蜜月の日々に、もう1人邪魔な奴が加わることになる。東海道新幹線が開通し、名神高速道路開通が間もない昭和40年1月5日、三男・友宏の生誕である。兄が4歳の誕生日を迎えてまもなくのことであった。


上甲子園幼稚園の送り迎えは毎日母が行っていた。当時はセドリックだったかローレルだったか忘れたが、日産のハードトップに乗っていた記憶がある。小柄な母が運転すると、母も兄も後続車から頭が見えないので、無人車が疾走するような光景が見受けられた。母はサングラスにスカーフという出で立ち、兄はバーバリーやインディアンといったブランドがお気に入り(母のお気に入りであったと思われる)で、今から考えると、かなり小洒落た親子に見えたかもしれない。父が上甲子園幼稚園に入れたのは、上甲子園小学校への越境入学を狙ってのもので、このためには住民票が西宮にある必要があり、幼稚園近くのマンションまで借りていた(ここで母は甲子園商店街で買い物などしながら誠彦を待っていたようだ)。尼崎よりお洒落な品物を売る商店や喫茶店などもあり、母も結構甲子園ライフを楽しんでいた。その中の一軒に帽子屋があり、当時から阪神ファンであった誠彦は阪神の帽子を買って貰うのを楽しみにしていたという。但し、頭のサイズが大きく大汗をかくので、母は毎年買い換えを余儀なくされていた。私も兄に倣って同じ幼稚園に通ったが、喫茶店の珈琲の香りや、甲子園でしか買えなかったダーキーのマヨネーズなどは今でもはっきり覚えている。
さて、誠彦自身は幼稚園ライフを楽しんだかどうかはわからないが、泣き虫のくせに、王様気取りで君臨していた(本人の言)は間違いなさそうだ。私の頃はケロヨン体操を踊り、給食は卵サンドの三角パンが定番であったが、兄の性格からすると「ケッ」とか言いながら適当にお遊戯をこなしていたのではないだろうか。昭和41年に無事に卒園した兄は、いよいよ上甲子園小学校へと進学する。


その先生には、告別式でお会いした。「Kです、覚えておいでですか?」最前列にお座りのK先生こそ、兄の小学校1年生の担任であった。この先生が常識を覆す問題児、誠彦を受け持ったのは、新卒まもなくのことであった。1年生の時、兄の通信簿に5段階評価の「2」を見つけた父は、怒鳴り込みに近い形で上甲子園小学校へと向かった。今よりは厳しい段階評価を下す当時においても、2をつけることは、よほどの理由があるとされていた。「体育が2とはいったいどういうことですか」怒声に近い父の問いに対しK先生は「誠彦君は、殆ど全く言うことを聞いてくれません。みんなで何かしましょう、ということは殆ど無視、授業中はほとんど後ろを向いています。学校の行き帰りに、どれだけ注意しても、必ず片足はドブに入って来ます。勉強はわかっているようですが・・・私にこれ以上、どうしろと言うのですか。」と息巻いた。今の教育現場であれば、間違い無くADHD(注意欠陥・多動性障害)やアスペルガー症候群のレッテルが貼られたに違いない。父が問い質しても、「言っていることは全部わかって聞いてるよ。退屈だから後ろ向いて話していただけじゃない」と開き直っていたとのこと、状況が目に浮かぶようだ。K先生は1-2年生を持ち上がり、3年生の先生も泣かせた後、越境通学に付かれた両親は実家から歩いて数分の尼崎市立七松小学校へ誠彦を編入することを決めた。


4年生に上がった兄を待ち受けていたのが、T女史先生であった。大阪で言うオバタリアンを絵に描いたような女傑で、声も大きく、迫力満点であった。実は私も1年間T先生にお世話になったが、良くも悪くも強烈な指導力のある先生であった。鼻の下に直径1.5cmぐらいの毛の生えた黒子が聳え立つのが特徴のT先生と兄の丁々発止の掛け合いは、時には授業を完全にストップさせることもあったようだが、兄は結構それを楽しんでいた風であった。ちょうど時は昭和40年、三波春夫が「1970年のこんにちは」を高らかに謳い上げた大阪万博の年、同じピアノ教室に通い出していた兄と私は、おそろいのコートに身を包み、万博のお祭り広場の真ん中で、この三波春夫の「世界の国からこんにちは」と皆川おさむの「黒猫のタンゴ」を謳った。ピアノ教室の面々全員での合唱であったが、センターマイクを挟んで、幼い兄弟2人が真ん中で歌っている写真が残っている。我々家族にとっての万博の思い出としては、混雑を避けるためにウィークデーの雨の日を選んで父が連れていってくれていたことが思い起こされる。当時5歳の私には、太陽の塔や三菱未来館などの迫力ある映像は強烈過ぎて、人間洗濯機や動く歩道など当時のハイテク機器や、ブリティッシュコロンビア館やソ連館などの建物のシュールさの方が印象に残っている。


実は1970年、昭和45年は兄がよく取り上げる三島由紀夫が割腹自殺した年でもある。当時の七松の家には、子供の寝室という板の間の部屋があったが、ここが北側に小さな窓だけがある暗い冷たい所で、私は兄の横のフェンスのあるベッドに寝かされていた。兄弟は親より先に20時には布団に入れられるのだが、部屋を暗くされた後に、「ほら、三島の首が〜〜出るぞお〜〜」と脅される毎日で、かなり恨めしく思ったことを今も覚えている。弟がある程度大きくなり、話しや取っ組み合いが出来るようになったことから、仮想敵に見立てて容赦なく責めるのである。兄が阪神ファンなら、私は巨人ファン、兄が北の富士を応援するなら私は玉の海、茶の間の畳がすり切れるまで相撲を取ったり、兄に投げ飛ばされた私が頭からガラス戸に突っ込んだりしたのもこの頃のことである。


さて、女傑のT先生の魔の手をくぐり抜けた兄は、5-6年の高学年を亀○先生と過ごすことになる。後に教頭、校長も務めた懐の深いユニークな先生で、問題児の兄の長所も短所も知り尽くした上で、上手にクラスの役割を担わしていた。同級生には、優等生で健康優良児のK田さん(後に尼崎市長を務める白井文(あや)さん)など居たが、転校生にも関わらずクラスの人気者となった兄は、小学校でも児童会長に2度選出されている。転校生のぼくちゃんが、尼崎の市立の小学校で周りの児童にとけこめた背景には、亀○先生と、美術担当の仏の松○先生のお二人のサポートが大きかったものと思われる。誠彦が読書に没頭し始めたのもこの頃で、北杜夫をはじめ父の書棚にあった文学全集などを読み漁っていた。この担任の亀○先生を題材に、原稿用紙100枚近い「神亀伝」なる小説を書いたことを覚えているが、その原稿の行方は知れない。


小学校時代の兄は、お出かけ好きの両親と一緒に各所へ旅行に出かけている。父は当時まだ珍しかった会員制ホテルのダイヤモンドクラブの会員に成り、琵琶湖、伊豆、穂高などのホテルをベースに夏の旅行を計画、冬は主に赤倉観光ホテルに泊まってスキーをするのが定番であった。中でも、母の故郷である信州への旅行は、夏に涼しいこともあり、家族全員のお気に入りであり、白馬、立山・黒部アルペンルート、上高地、蓼科や原村辺りは、何度か訪れている。スキーには、寝台急行「きたぐに」で直江津まで行き、そこから妙高高原の方へ向かうルートで入ったと記憶している。ホテルの前の専用ゲレンデでスキーを覚えた子供達は、親より先に滑ってしまい、リフトが止まった後、雪の中で泣きながらホテルまで歩いて(父は2人分のスキーを背負い)帰ったこともあったという。父曰く、開業医が一番豊かで生活に余裕があった時代かもしれぬと言っていたが、開業医の跡継ぎとなり日々の生活に忙殺される今、その言葉を噛みしめている。


一方で、母の里子は誠彦のお受験にテンションを上げていった。恐らく甲子園ライフ時代に仕入れた情報に基づいてと思われるが、当時、灘中・灘高受験で有名であった阪口塾ではなく、甲子園にあった保田塾へ4年生から通わせている。4年生時の入塾は先着順の小さな塾であったが、兄の学年は3人受験で全員灘中合格を達成している。幼稚園時代から数えると、「ママ」はほぼ9年間息子を甲子園まで送り迎えしていた勘定となり、天邪鬼の息子を有名私立中受験のレールに乗せるためにエネルギーを使い果たした母は、以後アルコールへの依存を深める結果となった。このように、両親の愛情を一身に注ぎ込まれ、無事に中学受験に成功した兄は、晴れて灘中学校1年生となり、馬糞帽(当時の中学の帽子の色からこう呼ばれた)を被って、颯爽と住吉まで電車通学することとなる。