その4 高校〜大学

 そんな高校生活を謳歌する誠彦にも、大学受験が情け容赦なく迫り来ようとしていた。生徒会長を終え、進学希望を決めようとする高校2年の夏頃であっただろうか、流石に今の学力では受験(特に医学部)は厳しいと悟った兄は、珍しく自分から父に一つの御願いをした。それは、英語の家庭教師を誰かに頼めないだろうか、というものであった。多人数に混じってじっくり授業を聞くということ出来ない兄には個人レッスン以外の選択肢はないと気付いていた父は、灘校で曾て英語を教えていたI田先生が個人指導を自宅でされているとの情報を入手、早速御願いに上がった。I田先生の授業は、授業等で使用される解答のない薄い英語の教科書をひたすら読ませる(英訳させる)もので、兄は中学校2年生の教科書から学び始めた。「ビリギャル」という映画があったが、英語に関しては偏差値30台の兄が受験の時には灘校の平均とまでは行かずとも、及第点レベルまで辿り着いたのは、このI田先生との二人三脚の賜物と言ってよい。

一方で、国語、社会といった文系科目については、校内トップレベルの学力を誇っており、模擬試験でも慶応大学の法学部、早稲田大学の政経学部など文系難関学部の判定でA(合格確実)レベルの成績を叩き出していた。しかしながら、医学部をはじめとする理系志望で判定を行うとD〜Eレベルと合格ラインは遙か彼方の状況で、特に数学や物理・化学などの成績は惨憺たる有様であった。

兄が受験をした1979年は共通一次試験の第1回目という変革の年であり、受験生は僅かな情報を頼りに大学の選定という博奕を打つことを余儀なくされた。医学部志望を父に公言してしまった兄は、唯一可能性のある医学部として筑波大学医学部を選択するが、その理由は、二次試験が兄の得意とする小論文のみという設定であったことに因る。共通一次試験は、理科を生物、地学で選択することで、苦手な物理・化学を回避し、英語はI田先生のお陰で及第点を確保、数学の夥しい失点を国語や社会でカバーした兄は、一次試験でまずまずの成績を初めて獲得、合格を信じて筑波大学の二次試験に臨んだ。「がーん、目の前が真っ白になったよ」と兄からTELが入ったのは、二次試験直後であった。筑波大の小論文は自主的な考え方などを記述させる形態ではなく、提示された実験結果に基づき、物理と化学の知識を総動員して論述させる本当の論文作成を要求するものであったのだ。見事に撃沈された兄は、白紙に己の医学部に対する思いの丈を紙面一杯に綴り、残りの時間を突っ伏して過ごしたそうな・・。

かくして1年間の浪人生活を送ることになった兄がどのように暮らしていたか、私の記憶から殆ど消えているということは、殆ど自宅には居ない生活であったようだ。唯一覚えているのは、灘高生が多く通った大道学園や駿台などの予備校へは行かず、代々木ゼミナール系がいいんだと主張して「教文研ゼミナール」へ通っていたことだ。ネットで検索しても既に無くなっているこのゼミに兄が一体どのぐらい真面目に通っていたか今となっては知る術もないが、当時一緒に浪人していたSさんという同級生(こちらも相当なワルと言われた方)が改造バイクで兄を自宅に迎えに来て、後ろに乗せて去って行った爆音が耳にこびりついている。一浪後の受験については、東京大学の文Ⅲ、早稲田大学の第一文学部などを受け、結局、早稲田への進学を決意したのであった。「東大を蹴って早稲田にしたんだ」などと私に嘯いていた頃もあったが、花房観音さんご指摘のように、嘘ばっかりの誠彦なので、真偽のほどは定かではない。


さて、ここからの誠彦伝に関する私の記憶が極めて希薄となる。既に花房さんや、東良さんに述べていただいた内容の方がはるかに正しい情報に基づいて書かれたものと思われる。というのもの、部室に弟の出入りを許さなかった兄なので、大学時代に兄の下宿を訪れたことは、恐らく1回だけであったからである。大学で少女漫画同好会の「おとめちっくクラブ」を創設したことや、ブレーメンファイブという会社を興したことなども、社会人になった随分後から聞かされた話である。1回だけ訪れた兄の下宿が、湯島だったか、早稲田鶴巻町であったか、その記憶すらあやふやである。確かなことは、兄の部屋は本や雑誌で埋め尽くされ、その大部分が怪しげなものであったことだ。

恐らく兄が大学3年か4年の頃であったと思われる。ご存知の色付き眼鏡にトレンチコート、肩までのロン毛という極めて怪しい風貌になっていた兄は「ゴーストライターと言ってな、表に出せないこの辺の本の原稿、殆ど俺一人で書いてるんだぞ、凄いだろう」と豪語し、「学生でちゃんと自分で食える稼ぎがあるのは僕ぐらい」と自慢した。東良さんの玉稿の中に出てきた白夜書房の本が積まれていたことは頭の隅に焼き付いている。フリーライター・三尋狂人として活躍し始めたこの頃、大学の単位が足りないと踏んだ兄は、父に対して「大学の態度があまりに理不尽で納得できないから、体育の単位1つだけわざと残して、もう1年早稲田に居ることにしたから」と一方的に告げ、これが原因で殴り合いの親子喧嘩となり、父の鼻の骨を折っている。この後、父は兄の生き様に口を挟んだり説教することを辞め、よき聴き手として全てを受け入れることを決意したようだ。

早稲田時代、一般の大学生のようなロマンチックな時間も多少はあったかも知れないが、社会の荒波の中で生き抜く術を身につけることに費やした兄は、やがて一般的プロセスを経た社会人としての歩みを始めることとなる。