「勝谷誠彦の××な日々」をご愛読いただきました皆様へ
勝谷友宏

 はじめまして。誠彦の弟の友宏です。
 急逝しました兄に対しまして、多くの皆様より心のこもった数々のメッセージを賜り厚く御礼申し上げます。また、通夜・告別式にも多くの方にご列席いただきましたほか、供花や弔電など多方面の多くの皆様より弔意を頂戴いたしましたこと、重ねて御礼申し上げます。

 兄が太く短い人生を謳歌できましたのも、本日記をご購読いただいた読者の皆様のご支援の賜物であると確信致しております。高橋「ヨロン」様やT-1さんを筆頭に、兄の毎日繰り出す無理難題を解決し、本日記の運営を支えていただいたスタッフの皆様には、感謝の言葉もございません。また兄の亡き後も、観音さんや東良さんをはじめとして、兄に関する熱い思いを的確かつ存分に語っていただき、弟として毎日うなずきながら拝読致しておりました。
 さるさる日記の頃からご愛読いただいていたベテラン読者の皆様には、兄の日常生活や性格だけでなく、私一家のことまでご存知かもしれませんが、本日記を仮閉まいするにあたり、少しばかり兄の生い立ちなどについて、お話しさせていただこうと思います。

その1 誕生まで

 誠彦の父、積治(せきはる)は、奈良県大和高田市の勝谷家の五人兄姉の四男(末っ子)として、昭和2年に生まれた。大和のこの辺りは、紡績の下請けをする企業が多く、実家も大手紡績会社の下請けでシャツの縫製などを行っており、積治の長兄は会社を400名規模の中企業に拡大させていた。天皇陛下が戦後に地方行幸なされた折に、村議会の長を務めたこともある祖父・好一が、フロックコートを着て先導の栄誉を賜ったことは、我々兄弟共によく父から聞かされた話であった。大和の実家の裏には天皇陵があり、周囲の入り組んだ道、お盆の墓参りの盆地特有の暑さなどは、幼い誠彦の印象にも強く残っていると思われる。
 一方、誠彦の母、里子(さとこ)は、八ヶ岳の麓、茅野市玉川村山田の丸茂家の三女として、昭和7年に生まれた。戦前の丸茂家は製糸工場で隆盛を極めており、女工も多く働く大きな家の末の娘(10歳離れた弟はいるが)として、蝶よ花よと可愛がられたと聞いている。当時は片倉、丸茂の二大製糸と呼ばれたが、丸茂家は戦後の農地改革で没落、祖父も若くして逝き、やがて祖母と一家は東大阪市の花園に移り住むこととなる。
 積治は、真面目で謹厳実直な性格、きちんと勉学に勤しむタイプであり、旧制畝傍中学から陸軍経理学校へと進み、出兵直前で終戦を迎えている。終戦前には、武蔵野で自給のための芋などを作りながら、東京へ空襲に向かうB29を見上げていた話を繰り返し話していた。当時の繋がりは、父の交友関係の中でも最も深く、当時の朋友がよく私の家にも遊びに来ていたが、今は全員鬼籍に入っている。終戦と共に、医学を志した父は、大阪高等医学専門学校から大阪医科大学に変わったばかりの予科へと編入、昭和26年に同医学部を卒業、その後は大阪大学医学部微生物研究所で学位を修めている。
 一方の里子は、諏訪高等女学校を経て大阪へ移り住み、新生の大手前高校、京都女子大学へと進学している。大学卒業後の里子は、杉野バレエ教室で研鑽を積み、プリマドンナとして舞台中央でスポットライトを浴びる傍ら、師範代として花園の家でバレエを教えながら、様々な方と交遊していたという。兄が小説「ママ」で記したように、ポニーテールでスレンダー、男性陣を手玉にとる母は、かなり目立つ存在であったようだ。この花園の家は今も里子の弟の一家が住んでおり現存する。大正時代に済んでいた船長の家を買い上げたもので、マホガニーの家具やステンドガラスが瀟洒な家で、今もその佇まいが残っている。300坪を超える敷地の庭は広く、祖母に預けられた幼い我々兄弟が庭遊びをした思い出が詰まった家である。
 この大和出身で謹厳実直な父と自由奔放な信州生まれの母が出会ったのも偶然の産物である。母の遊び友達の中に、父の友人が居たのが出会いの始まりのようである。父の友人が、安全牌の一人として合コンに連れて行った父が、意外にも母のハートを射貫いてしまった、ということになっているが、母に言わせると、真面目で間違いない人を私が釣り上げたのよ、というのが本当のことのようだ。両家の反対もなく無事にゴールインした若きカップルは、奈良の橿原新宮で結婚式を挙げる。当時、皇族しか許されなかった奥の社殿で挙げてもらったというのが父の自慢であったが、これには当時の橿原神宮の宮司が以前に諏訪大社に務めていたという偶然が重なったためであった。日本の奇祭の一つに数えられる諏訪大社の御柱祭であるが、この大社の一の氏子として刻まれていたのが当時の丸茂家であり、大和の名家との挙式ということで、多少の便宜を図っていただいたものと推察する。

 さあ、いよいよお待ちかねの誠彦生誕、と思われるかも知れぬが、実はその前に一人の男児が生を受けている。積治が学位を取得し、伊丹市の近畿中央病院で臨床を始めてまもなく、玉のような雪のように白い男児が二人の間に誕生した。名前を「洋(ひろし)」と付けた。有名な産院で臨んだ出産であったが、積治が受けた知らせは「母子共に危篤」というものであった。幸いにも里子は一命をとりとめたが、長男の洋は生後数日でこの世を去ることとなる。「本当に美しい子だったのよ。あの子が生まれていたら、あんたなんか生んでなかったのよ。」と三男の私は何度聞かされたことか・・・。
 その頃、父は現在私が開業している尼崎市七松町の医院を先代から買い上げ、30歳過ぎに開業医としての生活を開始した。当時の国鉄立花駅から勝谷医院は十分に見えたというが、今は駅前に兄も間借りしていた高層ビルが聳え、その面影はない。若い夫婦が始めた医院は活気に溢れ、瀬戸内の島や九州から中卒で出てきた看護師の卵達が看護学校に通いながら住み込みで働く、そんな家に次男、誠彦が生まれたのは、昭和35年12月6日のことであった。

その2 幼少期~中学入学

 母子共に恙なく出産の時を迎え、産婦人科を替えた積治も胸をなで下ろした。一人目の待望の男児を亡くし傷心の里子も、今回は安心して我が子を抱くことが出来、夫婦揃ってあんなに忙しく楽しい時期はなかった、と積治は後述する。医院もようやく軌道に乗り、誠彦の世話は里子と住み込みの看護師たちが交代で務めていた。医院の受付のリノリウムの床の上で、看護師たちの足下でコロコロと転がされながら誠彦はすくすくと成長する。子供の躾のためには、テーブルマナーも必要と考える積治は、幼子を連れてホテルに行くことも厭わなかった。大阪のロイヤルホテル、プラザホテル、神戸のオリエンタルホテル、六甲山ホテル、そして兄の日記によく登場する宝塚ホテルなどは行きつけであり、離乳食は宝塚ホテルのポタージュだったというのは兄の空想ではなかったようである。
 積治は当時、医師会の活動には直接タッチしないものの、内科医会の会長や代議員会の議長などを務めるようになり、当時会長を務めておられた瀬尾攝先生の自宅で開かれる新年会などにも毎年一家で出席していた。こうした新しい医師会での家族ぐるみの付き合いや、陸軍経理学校時代からの朋友からの影響もあり、子供の教育には人一倍力を入れる若夫婦が考えたのは、幼い誠彦を越境入学させることであった。里子が教えていたバレエの教室の関係もあり、二人が選んだ誠彦の入園先は尼崎の西隣りの西宮市にある「上甲子園幼稚園」( http://www.kamikoushien.ed.jp/ )であった。遣り手の園長が経営する同園は、当時最先端の子供教育を実践していたほか、ピアノや絵画などの各種教室も充実しており、誠彦もオルガンからピアノ、絵画などを習うようになっていった。
 当時の誠彦の様子について、積治は次のような話を繰り返し我々夫婦に語っている。「あいつは、あの頃から集団行動できなかったな。友達がいっせいにわーっと動く時に一緒に動けないんだ。行きは何とかみんなについていくんだが、帰りに足がもつれて転んで「わーっ」て泣くんだよ。で、誰かが助け起こしに来てくれるまで、そこでバタバタしながら泣いていて、起きないんだよ」。
 当時の若夫婦は、様々な社交の場に顔を出していたほか、自分たちでも大阪や神戸のダンスホールやビヤホールなどに盛んに出掛けており、この際には看護師達に子守を頼むか、アリメジンという抗ヒスタミン剤のシロップ(眠気が強い)を多めに飲ませて眠らせていくか、隣りのMさん宅に誠彦を預けていくなどして出歩いていた。このMさん宅に預ける時のエピソードも積治はよく紹介していた。「お隣さんとのフェンスに穴が開いていて、そこから牛乳ビンを持たせて誠彦を預けるんだよ。ところがあいつは頭がでっかくてバランスが悪いから、フェンスのところで転んで牛乳ビンを割ってしまうんだな。ビービー泣きながら、お隣さんが気付いて助けてくれるまで、絶対に自分では起きてこないんだ。」三つ子の魂百までと言うが、この時の兄の性分は死ぬまで変わらなかったように思われる。恐らく、最後に倒れた時も、誰か助け起こしてくれるだろうと思っていたのではないだろうか・・・。

 当時の誠彦は「ぼくちゃん」と呼ばれていた。3丁目の夕日、高度成長真っ盛りの時代である。国鉄立花駅の南側には、南立花市場があり、小柄ながら一目を引く雰囲気の母に連れられて買い物に行く兄は「勝谷先生とこのぼくちゃん」であり、地元の皆さんのマスコット的存在であったようだ。行きつけの八百屋やお好み焼きの「さがら」( https://tabelog.com/hyogo/A2803/A280304/28015527/ )などでは、「ぼくちゃん大きゅうなったな」と例の頭を撫でられる光景がよく見受けられた。
 ちなみに兄の三角頭と斜視は生まれつきである。母は頭の形を何とかしようと枕なども工夫したようだが、これは終生変わらなかった。斜視については、中学時代に一度兵庫医大で矯正手術をしており、幼少期よりは改善している。この頃は成人期よりも少し三白眼、外斜視に近い眼であったと記憶している。兄は両親のことを「パパ」「ママ」と呼んでいたが、天然パーマのオールバックでダンディなパパ、ポニーテールの細身で格好いいママは、誠彦にとっても自慢の存在であったようだ。そんな3人の蜜月の日々に、もう1人邪魔な奴が加わることになる。東海道新幹線が開通し、名神高速道路開通が間もない昭和40年1月5日、三男・友宏の生誕である。兄が4歳の誕生日を迎えてまもなくのことであった。
 上甲子園幼稚園の送り迎えは毎日母が行っていた。当時はセドリックだったかローレルだったか忘れたが、日産のハードトップに乗っていた記憶がある。小柄な母が運転すると、母も兄も後続車から頭が見えないので、無人車が疾走するような光景が見受けられた。母はサングラスにスカーフという出で立ち、兄はバーバリーやインディアンといったブランドがお気に入り(母のお気に入りであったと思われる)で、今から考えると、かなり小洒落た親子に見えたかもしれない。
 父が上甲子園幼稚園に入れたのは、上甲子園小学校への越境入学を狙ってのもので、このためには住民票が西宮にある必要があり、幼稚園近くのマンションまで借りていた(ここで母は甲子園商店街で買い物などしながら誠彦を待っていたようだ)。尼崎よりお洒落な品物を売る商店や喫茶店などもあり、母も結構甲子園ライフを楽しんでいた。 
 その中の一軒に帽子屋があり、当時から阪神ファンであった誠彦は阪神の帽子を買って貰うのを楽しみにしていたという。但し、頭のサイズが大きく大汗をかくので、母は毎年買い換えを余儀なくされていた。私も兄に倣って同じ幼稚園に通ったが、喫茶店の珈琲の香りや、甲子園でしか買えなかったダーキーのマヨネーズなどは今でもはっきり覚えている。

 さて、誠彦自身は幼稚園ライフを楽しんだかどうかはわからないが、泣き虫のくせに、王様気取りで君臨していた(本人の言)は間違いなさそうだ。私の頃はケロヨン体操を踊り、給食は卵サンドの三角パンが定番であったが、兄の性格からすると「ケッ」とか言いながら適当にお遊戯をこなしていたのではないだろうか。昭和41年に無事に卒園した兄は、いよいよ上甲子園小学校へと進学する。
 その先生には、告別式でお会いした。「Kです、覚えておいでですか?」最前列にお座りのK先生こそ、兄の小学校1年生の担任であった。この先生が常識を覆す問題児、誠彦を受け持ったのは、新卒まもなくのことであった。1年生の時、兄の通信簿に5段階評価の「2」を見つけた父は、怒鳴り込みに近い形で上甲子園小学校へと向かった。今よりは厳しい段階評価を下す当時においても、2をつけることは、よほどの理由があるとされていた。「体育が2とはいったいどういうことですか」怒声に近い父の問いに対しK先生は「誠彦君は、殆ど全く言うことを聞いてくれません。みんなで何かしましょう、ということは殆ど無視、授業中はほとんど後ろを向いています。学校の行き帰りに、どれだけ注意しても、必ず片足はドブに入って来ます。勉強はわかっているようですが・・・私にこれ以上、どうしろと言うのですか」と息巻いた。
 今の教育現場であれば、間違い無くADHD(注意欠陥・多動性障害)やアスペルガー症候群のレッテルが貼られたに違いない。父が問い質しても、「言っていることは全部わかって聞いてるよ。退屈だから後ろ向いて話していただけじゃない」と開き直っていたとのこと、状況が目に浮かぶようだ。K先生は1-2年生を持ち上がり、3年生の先生も泣かせた後、越境通学に付かれた両親は実家から歩いて数分の尼崎市立七松小学校へ誠彦を編入することを決めた。
 4年生に上がった兄を待ち受けていたのが、T女史先生であった。大阪で言うオバタリアンを絵に描いたような女傑で、声も大きく、迫力満点であった。実は私も1年間T先生にお世話になったが、良くも悪くも強烈な指導力のある先生であった。鼻の下に直径1.5cmぐらいの毛の生えた黒子が聳え立つのが特徴のT先生と兄の丁々発止の掛け合いは、時には授業を完全にストップさせることもあったようだが、兄は結構それを楽しんでいた風であった。
 ちょうど時は昭和40年、三波春夫が「1970年のこんにちは」を高らかに謳い上げた大阪万博の年、同じピアノ教室に通い出していた兄と私は、おそろいのコートに身を包み、万博のお祭り広場の真ん中で、この三波春夫の「世界の国からこんにちは」と皆川おさむの「黒猫のタンゴ」を謳った。ピアノ教室の面々全員での合唱であったが、センターマイクを挟んで、幼い兄弟2人が真ん中で歌っている写真が残っている。我々家族にとっての万博の思い出としては、混雑を避けるためにウィークデーの雨の日を選んで父が連れていってくれていたことが思い起こされる。当時5歳の私には、太陽の塔や三菱未来館などの迫力ある映像は強烈過ぎて、人間洗濯機や動く歩道など当時のハイテク機器や、ブリティッシュコロンビア館やソ連館などの建物のシュールさの方が印象に残っている。
 実は1970年、昭和45年は兄がよく取り上げる三島由紀夫が割腹自殺した年でもある。当時の七松の家には、子供の寝室という板の間の部屋があったが、ここが北側に小さな窓だけがある暗い冷たい所で、私は兄の横のフェンスのあるベッドに寝かされていた。兄弟は親より先に20時には布団に入れられるのだが、部屋を暗くされた後に、「ほら、三島の首が~~出るぞお~~」と脅される毎日で、かなり恨めしく思ったことを今も覚えている。弟がある程度大きくなり、話しや取っ組み合いが出来るようになったことから、仮想敵に見立てて容赦なく責めるのである。兄が阪神ファンなら、私は巨人ファン、兄が北の富士を応援するなら私は玉の海、茶の間の畳がすり切れるまで相撲を取ったり、兄に投げ飛ばされた私が頭からガラス戸に突っ込んだりしたのもこの頃のことである。

 さて、女傑のT先生の魔の手をくぐり抜けた兄は、5-6年の高学年を亀○先生と過ごすことになる。後に教頭、校長も務めた懐の深いユニークな先生で、問題児の兄の長所も短所も知り尽くした上で、上手にクラスの役割を担わしていた。同級生には、優等生で健康優良児のK田さん(後に尼崎市長を務める白井文(あや)さん)など居たが、転校生にも関わらずクラスの人気者となった兄は、小学校でも児童会長に2度選出されている。転校生のぼくちゃんが、尼崎の市立の小学校で周りの児童にとけこめた背景には、亀○先生と、美術担当の仏の松○先生のお二人のサポートが大きかったものと思われる。誠彦が読書に没頭し始めたのもこの頃で、北杜夫をはじめ父の書棚にあった文学全集などを読み漁っていた。この担任の亀○先生を題材に、原稿用紙100枚近い「神亀伝」なる小説を書いたことを覚えているが、その原稿の行方は知れない。
 小学校時代の兄は、お出かけ好きの両親と一緒に各所へ旅行に出かけている。父は当時まだ珍しかった会員制ホテルのダイヤモンドクラブの会員に成り、琵琶湖、伊豆、穂高などのホテルをベースに夏の旅行を計画、冬は主に赤倉観光ホテルに泊まってスキーをするのが定番であった。中でも、母の故郷である信州への旅行は、夏に涼しいこともあり、家族全員のお気に入りであり、白馬、立山・黒部アルペンルート、上高地、蓼科や原村辺りは、何度か訪れている。スキーには、寝台急行「きたぐに」で直江津まで行き、そこから妙高高原の方へ向かうルートで入ったと記憶している。ホテルの前の専用ゲレンデでスキーを覚えた子供達は、親より先に滑ってしまい、リフトが止まった後、雪の中で泣きながらホテルまで歩いて(父は2人分のスキーを背負い)帰ったこともあったという。父曰く、開業医が一番豊かで生活に余裕があった時代かもしれぬと言っていたが、開業医の跡継ぎとなり日々の生活に忙殺される今、その言葉を噛みしめている。
 一方で、母の里子は誠彦のお受験にテンションを上げていった。恐らく甲子園ライフ時代に仕入れた情報に基づいてと思われるが、当時、灘中・灘高受験で有名であった阪口塾ではなく、甲子園にあった保田塾へ4年生から通わせている。4年生時の入塾は先着順の小さな塾であったが、兄の学年は3人受験で全員灘中合格を達成している。幼稚園時代から数えると、「ママ」はほぼ9年間息子を甲子園まで送り迎えしていた勘定となり、天邪鬼の息子を有名私立中受験のレールに乗せるためにエネルギーを使い果たした母は、以後アルコールへの依存を深める結果となった。このように、両親の愛情を一身に注ぎ込まれ、無事に中学受験に成功した兄は、晴れて灘中学校1年生となり、馬糞帽(当時の中学の帽子の色からこう呼ばれた)を被って、颯爽と住吉まで電車通学することとなる。

その3 中学〜高校1年

「灘校の落ちこぼれ」兄の自虐的なつぶやきは、日記でよく散見されたフレーズである。しかし、兄が灘中を目指して受験勉強をしていた時、3000人程度の模擬試験で100番を下回ったことは無く、一桁の順位も数回経験、灘中学入試でもかなり上位の成績で入学した、と両親からは聞いている。ところが、中高一貫校である灘校は、良くも悪くも放任主義、昔の帝国大学のように個性豊かな教師達が、独自の方針と理論を6年間にわたって展開するため、最初に乗り遅れると、勝谷兄弟のように悲惨な運命を辿ることとなる。
 かく言う私も、中高時代の成績は悪く、兵庫県下一斉の模擬試験で県平均を下回った時には「お前のようなやつは灘高始まって以来だ!」と罵声を浴び、担任の数学の先生からは卒業時に「君の成績は単調減少やったな」とささやかれたものである。ただ教科全般に出来の悪かった私と異なり、兄の成績は極端であり、いわゆる理系科目は学年で最下位に近く、文系科目は優秀であった
 後に、兄弟でよく笑い話にしたのが、中高時代に習わない内容を中学校1年生時に教えられた物理の授業だ。「歪み」「丸棒の捻れ」などを小学校の理科の知識しかないところに突然説明され、ここでいきなり頭が捻れた我々兄弟は、その後回復することなく、物理、化学、数学、英語と落ちこぼれていく。
 一方で、小学校時代からトーマス・マンの「魔の山」や「ヴェニスに死す」などを愛読し、中学に入ってからは、歴史小説を読み漁り、資本論から相対性理論まで手を広げていた兄にとって、国語、社会、生物、地学などは、趣味を勉強にしているようなもので、自ずから得意科目となっていった。この頃得た知識が蘊蓄となり、××日記やTVでのコメントなどを支えていたものと思われる。

 灘校時代が舞台の「てんそこ」には、当時の同級生、教師達が若干の脚色・演出を施され描かれているが、定期試験で赤点を連発し、担任泣かせの異名をとった問題児の兄に対し、担任の先生から我が家に頻回に電話がかかるようになったのは、中学2-3年の頃であった。
 手塩にかけてエリート養成校へ入学させたと信じていたパパとママは絶句し、真面目な父は仕事に没頭することで邪念を払拭し、母はアルコールで気を紛らわせるようになっていった。一方で、両親の管理という呪縛から逃れた誠彦は、勉学に落ちこぼれても学校生活が快適に過ごせる居場所を見つけることに成功する。
 兄が灘中に入学した当時は未だ出澤(いでざわ)先生(故人)が地学の授業を担当されており、この「勝谷君でしゅね、よろひゅく」と息が漏れるように不思議なリズムで話される先生と兄の出会いが、彼の運命を大きく左右する地学部入部へと誘うこととなった。
 実は出澤先生が地学部顧問を務められた期間は1-2年だけで、その後、地学を正式に教える教師は灘校にはかなり長い間(私が灘高を卒業する直前まで)居らず、非常に存在感の乏しいN瀬先生が代理顧問を務めたため、地学部の部室は治外法権の巣窟と化していく
 「おい、勝谷はどこ行った?」授業中に教師が生徒に尋ねると「いつものとこですやん」と一斉に指さす先には、ソフトボールに興じる兄と地学部メンバーが校庭にいる風景は決して珍しいものではなかったようだ。後日談となるが、毎年12月末には、当時のメンバーが集まってソフトボールをする催しが現在も続いており、今回は兄を偲びながら東京のグランドでプレイをしたと写真付きのメールを同級生のO先生(現在は整形外科のカリスマ)から頂戴した。

 地学部地質斑の仕事はソフトボールではないかとも揶揄されたが、実は結構頻繁に「巡検」と呼ばれる石堀り旅行に出掛けていた。中でも恵那山周辺の石切場への巡検が多く、「てんそこ」の舞台にも再三登場している。採掘された水晶や化石などは兄の軽井沢の家に残っているが、未だ小学生だった私には、ヘルメットを被って腰にハンマーをぶら下げて出掛ける兄が、少し眩しく映ったものである
 兄が小学校時代の頃、兵庫県下の県立自然公園を全て回る小旅行に父がよく息子達を連れ出してくれていたが、この時のお気に入りの場所に黒川渓谷がある。兵庫県を代表する川の一つである市川の源流に近い渓谷で、現在では手前に大きなロックフィルダムの黒川ダム(堰堤98m)が出来、下流の多々良木ダムと合わせて揚水式発電としては日本最大の発電量を誇るが、我々兄弟が訪れていた頃にはダムは無く、美しい清流で川遊びをしたことが懐かしい。
 この川沿いに栄えたのが生野銀山である。石見銀山が世界遺産に指定され脚光浴びているが、曾ては日本を代表する銀山として栄え、当時の面影を残すテーマパークとして史跡生野銀山がオープンしたのは昭和49年のことであった。中でも三菱ミネラルコレクション(和田コレクション)と呼ばれた鉱物の展示は兄の興味を刺激し、後に地学部で採掘も行えるようになった兄が熱く私に解説してくれたことをよく覚えている。

 さて、この地学部の仲間達とは巡検やソフトボール以外でも様々な遊びに興じていた。当時の我が家は、道路側が中の見えないブロック塀で覆われており、内側は道に沿う形で横向きに車が2台縦列駐車できるスペースとなっていた。ここに卓球台を設置して、兄弟や親子で卓球をしていたのだが、これが地学部連中の目に留まり、学校帰りに我が家で卓球に興じるメンバーが後を絶たなかった。
 彼らは塀を乗り越え侵入し、自分の家のように卓球台を出してピンポンに励むため、私が小学校から帰ると鍵の閉まったカーポートの中で、髭の生え始めた中学生達が「おや、友ちゃんお帰り」と出迎えてくれることもよくあった。両親も彼らの来襲には意外に寛容であった。
 この仲間達と過ごす地学部の居心地がよいため、兄は殆ど理解の出来ない授業が多かったにも関わらず、6年間を皆勤で通学した。そんな誠彦の灘校生活において、メリハリを付ける2大イベントが、文化祭と体育祭である。
 文化祭では、展示作りに各クラブが創意工夫を凝らす。兄の中高6年間の展示で最大の自慢は「動くマントル模型」であった。マントル対流に乗って大陸が移動する様を、ハンドルを回すことで体感し、プレートテクトニクス理論を「見える化」した模型である。2日間の展示期間の後半には壊れてズブズブになってしまうのだが、地学部時代の兄の最大の宝物は、掘り当てた紫水晶よりも、当時の最先端理論を「見える化」したこの模型であったような気がする。
 一方の体育祭では、立て看板作りに汗を流していた。ベニヤ板数十枚を使い、校庭の高いネット一杯に拡がる超大型立て看板を作成する。グランドに残って遅くまで作業するのだが、消灯の時間を過ぎて間に合わないときは、近くの住吉川の河原にある「清流の道」と呼ばれるコンクリート道にカンテラを持ち込んでの作業が深夜にまで及んだ。
 余談だが、この清流の道と名付けられ、現在では市民の憩いのスペースのようにマンションの広告にも使われているが、実は土砂を運ぶダンプ道であった。兄は唾棄するように「神戸株式会社」とよくコメントしていたが、ポートアイランドや六甲アイランドの埋め立てに、六甲山を削り、この住吉川の河原にダンプ専用に作った道で膨大な土砂を運び埋め立てを行った名残りの道なのである。
 灘校の冬には長距離走が組み込まれており、この清流の道を数キロ走らされたものである。灘校の生徒歌には「住吉河原秋闌けて」や「雪清浄の六甲や」などのフレーズがあるが、住吉川に差し掛かると、今でも生徒歌と共に当時の立て看板作りやマラソンが思い起こされる。

 落ちこぼれながらも高校に無事進学(普通は問題になることはないのだが、兄の場合は「お宅の息子さん、公立高校へ戻られるという御希望は本当にないのですか」と何度も念押しされたと後に父は語っていた)した兄は、驚天動地の行動に出る。高校一年生として、灘校始まって以来初めて生徒会長に立候補したのである。
 以前より生意気な後輩として有名になっていた兄は、上級生から眼を付けられ、中学時代には柔道で気合を入れると称して腕をへし折られたエピソードも持っていた。その恨みがあった訳ではないと思われるが、これまで高校2年生が立候補するのが不文律になっていた中で、2年生候補を相手に立候補するという暴挙に出た。
 この選挙の時期にNHKが取材に入っていたことから、事態はさらに複雑となる。教育テレビの土曜の夜に「若い広場」という若者向けの情報発信番組が放映されており、この取材クルーが「一体全体、ガリ勉の塊と言われる灘校の実態はどうなっているのか」という興味本位で入り込んでいたのだ。
 この前代未聞の生徒選挙は、当然のごとく格好の取材対象となった。視聴率の上がらない教育テレビの番宣も兼ねて、この番組の紹介が、朝の連続テレビ小説も前後などに頻回に流された。「灘校で、お茶汲みして回っているの、先生とこのぼっちゃんやないですか?」と父は何度も患者さんに尋ねられたというが、「いや、取材は来てたけど、僕は映らないように、ちゃんと手を回しといたから大丈夫だよ」とあくまでもシラを切り通す兄に騙され、受験直前の私も灘校紹介をTVで見られるよいチャンスとばかりに家族全員で「若い広場」の始まりを茶の間で楽しみに待った。
 ところが、番組の柱は生徒会選挙を取り上げたものとなっており、学ランに鉢巻きを締め、取り巻き2名と一緒に5L入りのお茶入りヤカンを抱えて各教室を周り、生徒達にお茶を入れながら、声を枯らして選挙演説をぶつ兄の姿がそこにあった。この時に感じたエクスタシーが、数十年後に兄を県知事選挙まで駆り立てたことは想像に難くない。
 ちなみに、2年生候補の戦友、後藤啓二さん(全国犯罪被害者の会顧問弁護士)とは後に朋友となり、カツヤマサヒコSHOWにも出演いただいている。一方の私は、この選挙から現在に至るまで「勝谷誠彦の弟」としてのレッテルを剥がされたことは1日としてない。

 

 

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