その1 誕生まで


誠彦の父、積治(せきはる)は、奈良県大和高田市の勝谷家の五人兄姉の四男(末っ子)として、昭和2年に生まれた。大和のこの辺りは、紡績の下請けをする企業が多く、実家も大手紡績会社の下請けでシャツの縫製などを行っており、積治の長兄は会社を400名規模の中企業に拡大させていた。天皇陛下が戦後に地方行幸なされた折に、村議会の長を務めたこともある祖父・好一が、フロックコートを着て先導の栄誉を賜ったことは、我々兄弟共によく父から聞かされた話であった。大和の実家の裏には天皇陵があり、周囲の入り組んだ道、お盆の墓参りの盆地特有の暑さなどは、幼い誠彦の印象にも強く残っていると思われる。


一方、誠彦の母、里子(さとこ)は、八ヶ岳の麓、茅野市玉川村山田の丸茂家の三女として、昭和7年に生まれた。戦前の丸茂家は製糸工場で隆盛を極めており、女工も多く働く大きな家の末の娘(10歳離れた弟はいるが)として、蝶よ花よと可愛がられたと聞いている。当時は片倉、丸茂の二大製糸と呼ばれたが、丸茂家は戦後の農地改革で没落、祖父も若くして逝き、やがて祖母と一家は東大阪市の花園に移り住むこととなる。
積治は、真面目で謹厳実直な性格、きちんと勉学に勤しむタイプであり、旧制畝傍中学から陸軍経理学校へと進み、出兵直前で終戦を迎えている。終戦前には、武蔵野で自給のための芋などを作りながら、東京へ空襲に向かうB29を見上げていた話を繰り返し話していた。当時の繋がりは、父の交友関係の中でも最も深く、当時の朋友がよく私の家にも遊びに来ていたが、今は全員鬼籍に入っている。終戦と共に、医学を志した父は、大阪高等医学専門学校から大阪医科大学に変わったばかりの予科へと編入、昭和26年に同医学部を卒業、その後は大阪大学医学部微生物研究所で学位を修めている。


一方の里子は、諏訪高等女学校を経て大阪へ移り住み、新生の大手前高校、京都女子大学へと進学している。大学卒業後の里子は、杉野バレエ教室で研鑽を積み、プリマドンナとして舞台中央でスポットライトを浴びる傍ら、師範代として花園の家でバレエを教えながら、様々な方と交遊していたという。兄が小説「ママ」で記したように、ポニーテールでスレンダー、男性陣を手玉にとる母は、かなり目立つ存在であったようだ。この花園の家は今も里子の弟の一家が住んでおり現存する。大正時代に済んでいた船長の家を買い上げたもので、マホガニーの家具やステンドガラスが瀟洒な家で、今もその佇まいが残っている。300坪を超える敷地の庭は広く、祖母に預けられた幼い我々兄弟が庭遊びをした思い出が詰まった家である。
この大和出身で謹厳実直な父と自由奔放な信州生まれの母が出会ったのも偶然の産物である。母の遊び友達の中に、父の友人が居たのが出会いの始まりのようである。父の友人が、安全牌の一人として合コンに連れて行った父が、意外にも母のハートを射貫いてしまった、ということになっているが、母に言わせると、真面目で間違いない人を私が釣り上げたのよ、というのが本当のことのようだ。両家の反対もなく無事にゴールインした若きカップルは、奈良の橿原新宮で結婚式を挙げる。当時、皇族しか許されなかった奥の社殿で挙げてもらったというのが父の自慢であったが、これには当時の橿原神宮の宮司が以前に諏訪大社に務めていたという偶然が重なったためであった。日本の奇祭の一つに数えられる諏訪大社の御柱祭であるが、この大社の一の氏子として刻まれていたのが当時の丸茂家であり、大和の名家との挙式ということで、多少の便宜を図っていただいたものと推察する。


さあ、いよいよお待ちかねの誠彦生誕、と思われるかも知れぬが、実はその前に一人の男児が生を受けている。積治が学位を取得し、伊丹市の近畿中央病院で臨床を始めてまもなく、玉のような雪のように白い男児が二人の間に誕生した。名前を「洋(ひろし)」と付けた。有名な産院で臨んだ出産であったが、積治が受けた知らせは「母子共に危篤」というものであった。幸いにも里子は一命をとりとめたが、長男の洋は生後数日でこの世を去ることとなる。「本当に美しい子だったのよ。あの子が生まれていたら、あんたなんか生んでなかったのよ。」と三男の私は何度聞かされたことか・・・。


その頃、父は現在私が開業している尼崎市七松町の医院を先代から買い上げ、30歳過ぎに開業医としての生活を開始した。当時の国鉄立花駅から勝谷医院は十分に見えたというが、今は駅前に兄も間借りしていた高層ビルが聳え、その面影はない。若い夫婦が始めた医院は活気に溢れ、瀬戸内の島や九州から中卒で出てきた看護師の卵達が看護学校に通いながら住み込みで働く、そんな家に次男、誠彦が生まれたのは、昭和35年12月6日のことであった。