その5 社会人

ディスコ全盛のバブルの時代、ホイチョイ・プロダクションの「見栄講座」が一世風靡し、スキーやテニス、軽井沢が全盛の頃、大学卒業間近の兄が三尋狂人とブレーメンファイブとして刊行したのが、「大学生はったり講座」「大学生ひとなみ講座」であった。もはやレアアイテムと化した兄が最初に世に出した本はアマゾン等で25000円を超える値段で取引されている。サングラスにトレンチコートがトレードマークの当時の誠彦は、就職においても独自の「見栄」があり、電通や博報堂の内定を蹴って、文藝春秋社の採用を勝ち取ったことを誇らしげに父や弟に語った。写真週刊誌が全盛期の時代でもあり、先行する新潮社のFOCUS、講談社のFRIDAYに対抗して、満を持して文春が刊行したのがEmmaであり、文春1年生の兄は編集部に配属となった。1985年のことである。

自分で写真を撮り、記事を書く、兄にとっては呼吸するように当たり前のことが日常の糧になると知り、水を得た魚のように獲物探しに奔走していたのを記憶している。張り込みの際にタクシーを使うと目立つため、足代わりに弟の車が借り出されることも少なくなかった。当時の私は和歌山医科大学の2年生、免許取り立てで、よく走るけれども一番簡単な(パワステもパワーウィンドーも無し)車をと父に頼んで買ってもらったスプリンタートレノGTVで、深夜の高野龍神スカイラインを走破するような毎日を送っていた。兄のドライバーとして出動した数々の思い出の中で、特に記憶に残っているのは、高校を卒業し西武への入団が決まったばかり清原の取材だ。正月三が日に、清原の実家の電器店を訪れ、気さくな母親にインタビューした後、清原一家の車を追いかける密着取材であった。

行き先は初詣の三輪大社、人混みでごった返す中、1人肩から上がぬうっと出た清原の偉丈夫姿は晴れ晴れしく、周囲から飛び交う嬌声は彼が既に大スターであることを物語っていた。その後、未だ土葬の習慣の残る清原家の墓参りにまで同行が許された我々兄弟は、取材の帰途につく頃にはすっかり清原のにわかファンになっていることに気づいたことを記憶している。Emmaの創刊号の表紙を飾ったのはデビューしたての沢口靖子であったが、「もうちょっと早かったらデビュー前にお前に紹介できたのにな」と表紙の写真を撮った渡辺カメラマンと一緒に私に語った兄の残念そうな顔も頭の隅に残っている。まもなくして「沢口靖子は無理やったけど、若い売り出し中の女の子が居るけど、一緒に呑むか」と誘われたのが、蓮舫であった。当時は、クラリオンガールからタレントへ転身中で、日本財団(当時は日本船舶振興会)がスポンサーの旅番組でレポーター役として活躍していた。ウブな田舎の大学生であった私にとって、蓮舫は目と頭がよく動く綺麗な子で、眩しすぎて十分な話もできずに終わってしまい、後から少し悔やんだ青春の一頁となっている。

文春の編集部も一度だけお邪魔したことがある。花田紀凱編集長が居られたかどうか定かではないが、扉を開けるなり「おう、勝谷の弟か。君なら兄貴の字読めるやろう。解読してくれるか。」と兄の原稿を突きつけられ、あまりの金釘文字に「いえ、弟でもこれは無理です」と答えたことを記憶している。Emmaは、兄が乗ったかもしれないJAL123便の墜落事故、岡田友希子の自殺などをセンセーショナルに扱ったものの予想より売り上げ部数は伸びず、約2年で廃刊となる。しかしながら、Emma時代に培った自分独自で取材する技量や伝手を発掘する嗅覚は、その後の「もの書き」としての肥やしになったことは間違いない。兄が愛したフィリピンの黄色革命が起きたのもちょうどEmma時代であり、マラカニアン宮殿から撤退するマルコス夫妻や、軍事クーデーター無しに政権をひっくり返したコラソン・アキノ大統領と100万人の市民のパワーを目の当たりにことは、その後の取材姿勢に大きく影響しているものと考える。


その後、雑誌クレアを経て、花田紀凱編集長と再びタッグを組むこととなる週刊文春編集部へ異動となる。この頃に多くの現場を踏んだのが、ご存知不肖こと宮嶋茂樹カメラマンである。宮嶋さんは、父が老後を過ごすために建てた西宮の家に遊びに来られ、酒を酌み交わしながら、バリバリの関西弁で兄や父と「かなりやばい話」をして、母が「宮嶋さんって、ちょと下品だけど、面白い方ね」とつぶやいたのが印象に残っている。「湾岸戦争美女数珠つなぎ」は兄の日記でも有名なところであるが、戦場だけでなく実に多くの場所に宮嶋・勝谷コンビで尋ね歩き、週刊文春全盛期を支えたことは間違いない。湾岸戦争、フィリピンのゲリラ、カンボジアのポルポト政権、三井物産マニラ支店長誘拐事件など、やばい現場の取材は数えきれず、かなり多くの修羅場に宮嶋・勝谷コンビで殴り込みをかけ、時に失敗しながらも、何とか誌面を埋める努力をした苦労話を父に語っているのを小耳に挟んだ記憶がある。というのも、私は和歌山の医大で下宿暮らし、兄は東京中心に記者生活のため、兄弟で話をするのは、盆暮れに実家に戻ったときぐらいで、兄が父に一方的に話す内容を私が聞きかじるような状況であったためである。したがって、兄が社会人になってからの私の知識というのは、文春をはじめとする一緒に仕事をされた皆さんに比べればはるかに少なく、間欠的な記憶を頼りに、エピソードを繋ぐしかできないことはご容赦いただきたい。


さて、私も町医者ながら、年に数十回は講演する機会を賜り、全国津々浦々で医師だけでなく様々な皆さんにお話しさせていただいている。その際に、「誠彦さんの「××な日々」愛読しています。ところで誠彦さんって結婚されてるんですか?」という質問をよく頂戴した。兄からも、「おれのプライバシーは絶対に言うんじゃないぞ」と釘をさされていたので、「そういうことはお応えできないことになっておりまして・・・ご想像にお任せします」と常日頃応じてきていた。が、兄自身が日記で家族の事を書きまくるようになり、私の方から義姉に「兄の馬鹿野郎が申し訳ない」と何度も頭を下げる事態となった・・・のはここ数年のことである。ということで、プライバシーに関わる内容は差し控えるが、兄が結婚したのは、この文春時代の1991年のことである。

不肖(宮嶋さんのことではなく)の兄と伴侶になっていただいたのは、才色兼備のAさんで、××な日記を読まれた方は既にご存知かもしれないが、兄の筆が滑ってしまったこと以外には触れないでおきたい。Aさんは、発達障害のある兄には過ぎたる方で、結婚生活時代も、離婚後も本当によくしていただいたと、いえ今現在も「よくしただいている」と感謝の言葉しかない。そのAさんと華燭の宴を兄があげたのは帝国ホテル、仲人は父の故郷奈良県を代表する奥野誠亮先生(元文部大臣)に務めていただいた。文春からは上林吾郎社長や花田紀凱編集長にもご臨席いただき、兄の数々の奇行や暴言が曝露されて披露宴は大いに盛り上がり、その余韻は二次会の会場を紀尾井町の聘珍樓に移ってからも続いて途切れることはなかった。その後、2人の娘も誕生したが、「がきは嫌いなんだよ」と嘯いていた兄が、娘を授かると「子供も悪くないな、いやうちの娘だけだけどな」と目尻を下げていたのが忘れられない。死ぬまで親らしいことは殆どしてこなかった兄だが、暴言・奇行・我が儘で夫婦生活はやがて破綻したものの、真っ直ぐ聡明に育ったアクティブな2人の娘さんと、Aさんの前向きな姿勢を見るたびに、兄があの世で目尻を下げる姿が浮かぶようである。


尚、余談ながら、曾ては結婚式場カメラマンのバイトもされていた宮嶋さんに、兄に遅れること1年後の私共の結婚式での撮影をお願いし、蝋燭の炎越しにモノトーンで撮影された女房のウェディングドレス姿は、私の宝物として今も飾らせて頂いている。
さて、兄弟揃って所帯を持ち、私も医師として働き出したころ、週刊文春から花田編集長共々マルコポーロ誌へと移っていた兄にも、例の「ナチスのガス室は無かった」記事問題で処分が下ることとなり、納得のいかなかった兄は花田さんと一緒にフリーランスとなる決意を固めるのであった。1996年、35歳での決断であった。