おはようございます。ヨロンです。
昨日の山形は天気が回復したのですが、夜に帰京したところ、梅雨入りした東京は雨。一瞬、雨を狙って移動しているような気になりました。
堺市長選挙の結果が出ました。
▽永藤英機(維新・新)当選 13万7862票
▽野村友昭(無所属・新)12万3771票
▽立花孝志(諸派・新)1万4110票
維新の永藤氏が当選したのは予想どおりですが、意外と接戦になったのは、丸山穂高、長谷川豊といった現職議員、候補予定者のトラブルだけではなく、やはり都構想への賛否という面もあるのでしょう。有権者はよく見ているし、よく考えているということなのだと思います。自民党が一枚岩になって、公明党もまとまっていたら結果がわかりませんでした。
泡沫候補と見られていた「NHKから国民を守る党」の立花孝志氏が5%の得票率を得たのは、統一地方選挙で好調だったこともありますが、勝ち目のない選挙に代表自らが出馬するという「攻め」の姿勢が認められたということもありそうです。
結果として、大阪府、大阪市、堺市のトップを獲った維新はやりやすくなりますが、府はともかく大阪市と堺市はまだ民意が割れている状況なので、慎重に進めていかないと、しっぺ返しを食らうこともあります。
5月頭に出版した『PTAのトリセツ』が朝日新聞で記事になりました。有料会員向けではありますが、リンクしておきます。
<PTA、人気組織に変われた 神戸の市立中学、軌跡が本に>
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14049479.html
<約60人の役員全員が立候補で埋まる。そんな人気組織に生まれ変わったPTAが神戸市にある。無駄な役割はそぎ落とし、子どものための活動はむしろ手厚く――。改革に取り組んだ元会長と当時の校長が、その軌跡を本にまとめた。「PTA不要論」とは異なる改革の方向性を示している。>
おかげさまで問い合わせも増えていますが、書店には置かず、Amazonのみの販売なので、現在の納入依頼も千冊強というレベルです。それでも、この反響は樫野さんの企画・営業力の賜物で、通常ではありえません。社会的に問題となっているところに差し込めたということもあるのでしょう。
さて、高野登アニキの登場です。今日は自己紹介的な内容となります。昨日のFacebook投稿を見たら、今はマンハッタンに滞在していて、久々に朝ランしたとか。
高野さんのプロフィールはこのあと掲載しますが、ひとことで言うと「日本一のホスピタリティ伝道師」ということになるかと思います。
ホテルマンとしての経験や実力はもとより、その人間的魅力が全国からのラブコールが絶えない最大の理由です。500人程度のキャパの講演会は、有料であってもすぐに満席となり、来場者がそのままリピーターになるというほどの人気。
Amazonの著者プロフィールでは、2007年のリッツ・カールトン東京の開業サポートまでしかありませんが、このあと2009年に故平野稔平安堂会長と私とで半年かてけ口説き、勝谷さんも説得チームに加わって長野市長選出馬となりました。結果はすでにお伝えしたとおり、651票差での惜敗となりましが、その後「人とホスピタリティ研究所」を開設して、現在では窓口となる事務所もマネージャーももうけてないのに、全国からの依頼はひっきりなしで、「高野登寺子屋百年塾」は14箇所にも増えています。
リッツ・カールトン日本支社長時代に出した『リッツ・カールトンが大切にするサービスを超える瞬間』(かんき出版)は50刷を超えてまだ増刷しているとか。他にも著書多数。
まだ、高野さんにどの程度の連載をしてもらえるのか、検討中のところもあるのですが、私として永遠に続けてもらいたい。それは冗談としても、少なくとも本一冊分以上は続けていただき、経営だけでなく、日常を生きていくための刺激とヒントをみなさんと共有できたら、こんなに嬉しいことはありません。
高野登プロフィール(Amazon著者プロフィール)
1953年、長野県戸隠生まれ。ホテルスクール卒業後、ニューヨークに渡りホテル業界に就職。82年、念願のNYプラザホテルに勤務後、LAボナベン チャー、SFフェアモントホテルなどでマネジメントも経験。90年にリッツ・カールトンでサンフランシスコをはじめ、マリナ・デル・レイ、ハンティント ン、シドニーなどの開業をサポートし、同時に日本支社を立ち上げる。93年にホノルルオフィスを開設した後、翌94年、日本支社長として日本に戻る。リッ ツ・カールトンの日本における営業・マーケティング活動をしながら、97年にザ・リッツ・カールトン大阪、2007年にザ・リッツ・カールトン東京の開業 をサポートした
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「アメリカで触れた、ホスピタリティ精神」
高野登
初めまして。人とホスピタリティ研究所の高野と申します。私は1974年、21歳の時に渡米し、ニューヨークで10年間、西海岸で10年間、ハワイで1年間働きました。そして21年後、42歳の時に帰国して大阪のリッツ・カールトンの開業に携わりました。その間、ホテルキタノの開業を皮切りに、ヒルトンホテル、ザ・プラザNY、ボナベンチャーホテル、SFgフェアモントホテル、そしてリッツ・カールトンホテルと、多くの経験を積むことができました。特にザ・プラザやフェアモント、リッツ・カールトンでのメンター達との出会いは、私の中では大事な宝物になっています。
今回、ヨロンさんからお話を頂きて、これから何回かに亘って、私が考えてきたこと、体験したこと、出会った人たちのことを少しずつ紹介させて頂こうと思います。
最初に今日は、アメリカ人のホスピタリティの心について、私の経験を通じてお伝えしてみようと思います。
・・・1997年9月。その夜、私はアリゾナ州のフェニックス・スカイハーバー国際空港に到着しました。リッツ・カールトンの日本支社長としての出張でした。フェニックスは気温が温暖で、プロアスリートの合宿地としても知られています。空港を出た時はすでに夜の10時近かったものの、私はリラックスしてタクシーに乗り込みました。30分ほどで、ホテルに到着すると、車寄せにホテルの総支配人が立っています。
「あれ、珍しいな」、不思議に思ったのは当然です。ロサンゼルス経由の遅い時間での到着だったので、出迎えなどまったく予想していませんでした。
手をあげて笑いながら近づいていくと、いきなり真顔で「アイム・ベリー・ソーリー(とても気の毒に思う。遺憾だ)」のひと言。
何かあったのかと訊ねると、彼はすぐにホテルの部屋に行き、留守電を聞くよう促しました。チェックインの手続きは事前に済ませてくれていました。そして彼が手渡してくれた鍵を受け取り部屋に入ると、メッセージランプが点滅しています。ボタンを押すと、耳慣れた声が流れてきました。日本支社にいる私のスタッフです。
「お父さまが交通事故に遇われました。すぐ日本にお戻りください」
親父が、交通事故・・・。
一瞬、頭の中が真っ白になりました。青天の霹靂とはこのことでしょう。安否など詳しい情報はなく、ただ「すぐ戻るように」の言葉。聡明なスタッフです。軽傷であればその旨、言い添えてくれたことでしょう。説明がなく「すぐに」ということは、最悪の事態を意味します。私はへたへたとベッドに座り込んでしまいました。
しかしすぐに気を取り直して、実家に電話を入れ、私の悲しい予感が的中したこと確認したのでした。
ロビーから部屋に入るまでに要したのは、わずか数分でした。チェックインの手続きもなく、総支配人はポケットから鍵を取り出し、「あなたの部屋だ」とすぐさまエレベーターに乗せてくれたのです。もちろん彼は事故のことを聞いていたのでしょう。だからわざわざ入口で私の到着を待っていてくれたに違いありません。
自分では何も告げずに「部屋で留守電を聞くように」と促したのは、ちゃんと分かっていたのだと思います。もしも事故の知らせをロビーで聞いたなら、ホテルマンとして、動揺を隠すために必死に努力するだろうということを。冷静でいようとして、心身はすごいストレスに耐えなくてはならないということを。そんなとき、どんな言葉も慰めにはならないと知っていたから、一人で留守電を聞くよう計らってくれたのだと思います。もちろん、そのことに思い至ったのは、ずいぶんあとになってからのことです。
さて、動揺からなんとか立ち直った私は、帰国便の変更手続きを依頼するため、コンシェルジェに電話をしました。その夜のフライトがないのは当然として、四日後の帰国予定便を明日の朝一番の便に変更しなければなりません。コンシェルジェに事情を告げると、「ミスター・タカノ、もうすでに変更してありますよ。ご心配なく」という返事が返ってきました。あの総支配人がすでに手配してくれていたのでした。日本支社から事故の知らせを聞いた時、彼は支社のスタッフから私のフライトスケジュールを聞き、一番早い便に変更をすませてくれていたのです。
しかも翌日、空港でチェックインをしたときに、マネージャーがコネを使って、座席をビジネスクラスにアップグレードしてくれていたことを知りました。当時は社内規定が厳しく、私のレベルでは海外出張でも席はエコノミークラスでした。辛い状況での帰国だから、広い席で少しでも体を休めながら帰国させてあげよう。そうすれば少しでも気分が違うだろうと考えてくれたのでしょう。
出発するとき、玄関口で「空港まではホテルの車を使ったらいい。またどこかの会議で会おう。気を付けて帰るように。」 彼が私に告げたのは、ただそれだけ。チケットのことなど、おくびにも出しませんでした・・・
ホスピタリティ精神もおもてなしの心も、相手にそっと寄り添うところから始まります。アメリカのビジネス界はドライであり、自己アピールの強いパフォーマンスの社会であると思われています。しかし、私は21年間働くなかで、決してそうとばかりは言えないなということを経験してきました。いろいろな人に出会い、学ぶ機会も頂きました。もちろん「逆縁もまた縁」というような厳しいこと、悔しいこともたくさん経験してきました。
いま振り返れば、すべてが学びの糧になったように思います。私は、人生は長い「あみだくじ」のようなものだと思っています。右に左に折れ曲がりながら進んでいく中で、ある瞬間に横棒が加わります。すると、あみだくじの行く先が変わるように、自分の人生も思わぬ方向に舵がきられます。この加えられた横棒が、人との出会いや機会との遭遇なのだと思います。その出会いに気づくかどうか、気づいたならそれを活かせるかどうか。そのあたりが人生の醍醐味だと思っています。
皆さんからみたら、つたない経験かも知れませんが、これから少しだけ皆さんにお話出来ればと願っています。どうぞ宜しくお願い致します。