2020年3月24日号。<花房観音の輝いていない日々 第31回 / 延期のストーリー作りに入ったオリンピックだが>

<花房観音の輝いていない日々 第31回 / 延期のストーリー作りに入ったオリンピックだが>

 おはようございます。ヨロンです。

 ここのところ、リモートワークやオンライン会議・講義などの相談が毎日のようにあります。もちろん、新型コロナの影響もありますが、以前から流れはありました。Zoomなんて、昨年シンガポール在住の某氏から「ビジネスで使わないか」という打診があり、私は「何じゃそれ?」の状態だったのですが、今は高齢者のアナログな読書会でも使われるようになっています。
 来年度の武蔵大学の講義では、私はスマホアプリのプログラミングを教えようとしていたのですが、急遽「ストリーミング配信やオンライン会議のシステムをベースに、新しい働き方や地方創生案のモデルを作ろう」というテーマに変更しました。教務課に「今からシラバス変えられますか?」と問い合わせたところ、「明日中だったら大丈夫です」と言われたので、すぐに書き換えました。

 今だからこそ、想像力を高めて新しいことを始めるべきだと思います。まず、ありとあらゆることをオンラインで置き換えられないか、と考えるだけでいろんな可能性が見えてきます。そのなかで、オンラインではできないことも確認でき、作業の効率化にもつながると思うのです。


■延期のストーリー作りが進む

 オリンピックの開催判断は一ヶ月ではなく2週間程度で出るでしょう、などと書いたら、速攻で延期のストーリー作りが始まりました
<東京五輪延期の公算高まる、4週間内にIOC結論ー安倍首相容認>
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2020-03-23/Q7MDKMDWLU8L01
<7月24日から開催予定の東京五輪・パラリンピックが、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大を受け、延期される可能性が一気に高まってきた。国際オリンピック委員会(IOC)が延期を含めた予定変更を検討すると発表したのに続き、安倍晋三首相や小池百合子東京都知事も延期を容認する姿勢を打ち出したためだ。  >

そして今朝のニュース。
<IOC古参委員「7月24日には開幕しない」 米紙に>
https://digital.asahi.com/articles/ASN3S127WN3RUHBI03Y.html
<東京オリンピック(五輪)をめぐり、国際オリンピック委員会(IOC)のディック・パウンド氏(78)が23日、米紙USAトゥデーの取材に対して「延期が決まった」と述べた。2021年の開催の可能性が高いという。新型コロナウイルスの感染拡大を受けた判断といい、「(いつになるなど)先々の要素はこれからになるが、7月24日には開幕しないことは分かっている」と述べた。>

 日本としてはどうしても中止だけは避けたい。そして、IOCのバッハ会長は来年改選の選挙があり、小池都知事は今年7月の都知事選。安倍首相は、衆院選や総裁選があるので、中止では悪影響が予想され、三者三様の思惑が交差します。

 これから「どのくらい延期するのか」ということで進んでいきますが、決定に時間をかけていると、延期のデメリットばかりが煽り気味で報じられることになるでしょう。
 ひとつ懸念されるのは、「中止はありえない」としても、それは日本とIOCのデメリットの話で、もし2年延期となると「いっそのこと中止にして4年後に切り替えるべき」という意見が他国から出てくるのではないか。NBCの動向が注目されていますが、中止になったとしても保険に入っているので、金銭的なマイナスはそれほどないはずです。
 26日からの聖火リレーは車でランタンを運ぶだけになるようですし、決定まで長引けば中途半端なまま時間だけが過ぎていきそうです。


 今日の観音さんの「輝いていない日々」。
 「幸福の科学」大川隆法総裁の息子がユーチューバーになっていて、親をディスってウケているということは以前迂闊屋から聞いていました。幸福の科学自体がお笑いのようなものなので、笑い話として聞いていましたが、テレビでアーチャリーのドキュメントを観たとき、カルト宗教の教祖を父に持つ子の苦悩を感じました。自分は平凡な家庭の子で良かった。

 「さよならテレビ」の土方宏史監督の「土」は、正確には「土」に点がついています。機種依存文字なので、ここでは「土」にさせていただきます。読み方は変わらず「ひじかた」です。

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 花房観音の輝いていない日々 第31回


 三月は本来なら、久々に歌舞伎三昧の日々を送るはずだったのですが、全公演中止となりました。南座のスーパー歌舞伎Ⅱ「オグリ」見たかったな……。新橋演舞場や博多座でもやってたけど、南座に来るのを待っていたらコロナのせいでダメになりました。
 もう引きこもって仕事するしかないのですが、モチベーション上がりません。やはり人間て、娯楽は必要ですね。

 お知らせふたつです。

・現在発売中の「週刊新潮」の、実際に起こった事件を小説にする「黒い報告書」のページを書いています。
・KBS京都、お昼の番組「きらきん!」にて、春からレギュラー出演します。「もっと知りたい京都」のコーナーで、案内人になります。月イチぐらいの出演です。初回は4月3日放映です。
https://www.kbs-kyoto.co.jp/tv/kirakin/


 図書館も美術館も博物館も休みで、ストレス溜まりまくっていたのですが、先日、映画館に行きました。映画館て密室だし換気よさげでもないし、どうなんだろう? と、少しだけ心配していたのですが、全く問題なかったです。
 なぜならコロナの影響で、お客さん少なくてガラガラだから! 平日の昼間だというのもあるし、映画にもよるんでしょうけどね。「パラサイト」は入っているらしいし。
 と、いうことで、安心して映画鑑賞してきましたが、大変興味深い内容だったので、ご紹介します。

「さよならテレビ」(プロデューサー・阿武野勝彦、監督・土方宏史)

 名古屋の東海テレビ制作のドキュメンタリー映画です。
 東海テレビは、近年、数々の話題作になったドキュメンタリーを製作してきました。ここでもご紹介した、冤罪と言われ続けている名張毒ぶどう酒事件を扱った「眠る村」、そして、ヒットした「人生フルーツ」、カメラが暴力団の事務所まで踏み込んだ問題作「ヤクザと憲法」などです。
 特に「ヤクザと憲法」は、衝撃でした。テレビ局のスタッフたちが、ある暴力団事務所に密着するのですが、警察のガサ入れや、〇〇〇を売買する場面など、え? こんなんよく撮らしてくれたね?? という場面がたくさん出てきます。
 印象に残っているのは、事務所の本棚に、犬や猫の本、写真集が何冊も並んでいた場面。監督が、「これは……」と、事務所の人間に問いかけると、「(刑務所に)入ってるときとか……癒しになるんで……」と答えていて、なんだかほっこりしました。
 タイトルの「ヤクザと憲法」ですが、締め付けが厳しくなった昨今、憲法で保障されているはずの「人権」について疑問を投げかけています。

 そして、最新作「さよならテレビ」です。
 東海テレビが今回、カメラを向けたのは、「テレビ局」つまり、自分たちの世界でした。
 本作は、東海テレビ60周年記念番組として制作され、東海地方限定でテレビ放映されました。このとき、視聴率は特によくもなかったのですが、内容がテレビ関係者の間で広まり、コピーされたDVDが引っ張りだこになったそうです。
 私も知人のテレビ局の方と話しているときに、「見ましたよ。あれは衝撃でした。胸が苦しくなりました」と言われました。
 そして再編集され、劇場で公開されます。
 映画は、2016年のある日、ディレクターの土方さんが、東海テレビ報道部のフロアに、「テレビの今」というドキュメンタリーの企画書を渡したところからはじまります。
 テレビ局は今、どうなっているのか。その映像を撮るために、デスクにマイクをつけ会話を拾い、カメラをまわすという話で、報道局の面々は戸惑いを隠せず非難の声もあがります。
 身内からの「取材拒否」にあい、フロアを離れたあと、プロデューサーの阿武野さんは、「撮るなって言われても、使ってる場合があるよね、政治家とか」と、つぶやきます。
 つまり、自分たちは「報道」という立場で、嫌がる人をカメラに捉え放映しているのに、自らが対象となると、逃げるのか、と。
 そして幾つかの条件を経て、報道部でカメラがまわります。

 社会見学で東海テレビを訪れた小学生に、報道部長が「報道の使命」をレクチャーする場面が映ります。目の前のホワイトボードに書かれているのは、以下の三項目でした。

1、事件・事故・政治・災害を知らせる。
2、困っている人(弱者)を助ける。
3、権力を監視する。


 画面でこれ見て、まず疑問に感じたのは、3の「権力を監視する」です。
 テレビは権力の監視ができているのでしょうか。また、それをきちんと忖度せずに報道しているのでしょうか。
 テレビ局がふれない、ふれられないことは、たくさんあります。権力の監視どころか、権力と結びついているところもある。
 私が抱いた疑問は、映像の中でも浮き上がってきます。

 そして、東海テレビに見学にきた学生たちに、お昼はお弁当が出されますが、そこで、「このお弁当は、岩手のお米です」と説明があります。なぜ、岩手のお米なのか……。
 東海テレビといえば、東日本大震災からまもない、2011年8月、生放送で放映していた情報番組内で、秋田県産の稲庭うどんのテレビショッピングを放映している最中に、全く関係がないはずの、岩手県産のお米・ひとめぼれのプレゼント当選者発表画面に切り替わりました。
 そこには「怪しいお米 セシウムさん」「汚染されたお米 セシウムさん」の文字がありました。
 MCの福島アナウンサーは、すぐにこれに気づき、お詫びをして場面は切り替わります。
 ダミーで作ったテロップが、操作ミスで誤って出てしまったのだとのちに経緯が説明されました。テロップ担当者は、外部の制作会社の人間で、その他、局内の様々なミスと偶然が重なり、ありえないことが起こったのです。
 結果、東海テレビには非難が殺到し、福島アナウンサーもネット上で「死ね」と罵倒され続け、次々とスポンサーが降板し、番組は打ち切りとなりました。
 東海テレビは再発防止のための検証委員会を作り、謝罪と説明に追われます。現在にいたるまで、毎年必ず「放送倫理&放送人研修会」が実施されている映像も流れます。
 このように、「セシウムさん」騒動の対策を十分にとっているはずなのに、この映画の撮影中に、また福島アナウンサーがMCを務める生放送の番組の、「匿名座談会」で、顔を隠して数人の人たちが話をする場面で、ひとり、映像処理のミスで顔がそのまま出てしまったというトラブルも発生し、ネットで「東海テレビ、またやったのか」「セシウムさん、反省してないな」と、炎上します。

 若者はテレビを見ない、テレビ離れと言われているけれど、テレビの影響がまだまだ大きいのも事実です。大きいからこそ、人を傷つけることも避けられない。
 誰もが見られる、テレビというメディアの問題点、闇、これからどうしていくのか。
 見ている最中、何度も重苦しい気分になりましたが、深く考えさせられたドキュメンタリー映画でした。
 よくも、自分たちの世界に、ここまで踏み込んだなと、驚きもしました。

「さよならテレビ」
https://sayonara-tv.jp/



 最近読んだ、興味深い本のご紹介を。

「幸福の科学との訣別 私の父は大川隆法だった」(著・宏洋/文藝春秋)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163912028

「幸福の科学」を知らない方はいないでしょう。
 本尊はエル・カンターレ、総裁は大川隆法、全国に多くの信者を持つ宗教法人です。政党「幸福実現党」、学校や映像関係、出版など、様々なジャンルに手を広げています。
 著名人が亡くなるたびに、「霊言」の本が発売されるので話題にもなります。
 私の知人に熱心な信者もいて、一時期はたくさん本が送られてきたので、読んでいましたし、多少の知識はあります。
 大川隆法総裁の妻、きょうこさん(前世はアフロディーテ)が、数年前に離婚し教団を出たのも週刊誌に記事が載りました。
 そして一昨年、大川隆法の長男である宏洋さんが、ユーチューバーとなり、幸福の科学との訣別宣言をし世に出ました。生まれたときから「幸福の科学の総裁の子」として、特殊な育て方をされ、学生時代から教団の業務に関わっていた宏洋さん。
 今回出版された本では、自分の育ってきた環境、教団に対する疑問、離れた経緯、家族のことについて綴られています。
 幸福の科学の教義や、その在り方の是非は置いておいて、特殊な環境であるがゆえに、宏洋さんが、「家族」というものに幻想を全く抱いておらず、極めて冷静に、客観的に父・大川隆法と「幸福の科学」を語っているのが、非常に面白い。
 宗教や信仰の本というよりは、「家族」幻想が、いかに実態のないものかをつきつけられる痛快な本でした。


 そしてこの本を読んで、思い出したのは、これ。

「止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記」(著・松本麗華/講談社)
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000189222

 2015年に刊行されたものです。
 1995年の地下鉄サリン事件後、オウム真理教の施設が捜索され、大勢の信者が逮捕され、「オウム真理教事件」は、日本中を揺るがしました。
 あの頃、度々、映像に登場していたのが、教祖・麻原彰晃こと松本智津夫の三女・アーチャリーです。麻原に特に可愛がられており、後継ぎとされていて、生意気で挑戦的な態度で、麻原の数多い子どもの中でも、ひときわ目立っていました。
 成長したアーチャリーこと松本麗華は、「アレフ」(オウム真理教の後継団体)とは関係ないと言いつつも、麻原を「大好きな父」と公言し、思慕と崇拝を隠そうとはしません。
 父が死刑になった際には、遺骨を返還するように要求しています。
 麻原の娘であるがゆえに、大学入学もひと悶着で、仕事もままならず、それでも彼女は父を慕い、本名を名乗り、松本智津夫の娘であることを公にしています。
 本を読むと、彼女も非常に頭にいい冷静な人で、父親と教団がどれだけ恐ろしい犯罪を犯したか、人が苦しんでいるのか、わかっていないわけではないように思えます。罪だと知った上で、引き裂かれながらも、父を信じ続けています。そこには、善悪を超えた「家族」への想いがありました。
 大川隆法の息子が、父親を、家族というフィルターを持たずにシビアに眺めて、父のもとを離れたのとは対象的でした。

 カルト宗教や、ブラック企業は、しばし「自分たちはファミリーだ」と言いたがります。結束を固め、縛り付け、離れることに罪悪感を植え付け、外部と遮断し、論理的な思考能力を奪い、労働に見合う対価を払わないために、「私たちは家族だ」と口にします。
「家族だから」傷つけ、踏み込み、痛めつける。人と人との関係の一線を超えてしまうのも許されると信じている。
 本当は、たとえ血がつながっていても、離れたほうがいい関係なんて、たくさんあるのに。
「家族だから」は、ときには、呪いの言葉です。
 何の疑問も持たず、「家族だから」仲良くできる人たちは幸せかもしれないけれど、疑問を持つことも必要だと思うのです。

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