2010年7月9日号。<支那人のタカリ生活保護について支那領事館に「ご説明」に行く市長を持つ大阪市民よ、どないやねん>。
2010年7月9日号。<支那人のタカリ生活保護について支那領事館に「ご説明」に行く市長を持つ大阪市民よ、どないやねん>。 3時半起床。タイ時間。 また数時間を走ってバンコクに戻ってきた。ここに到着した時はほんの半日のトランジットだったのではじめて街をゆっくりと歩く。少し前のドンパチの時と同じ街とは思えない。いや、同じ街なのだ。しかし、この地の人々は忘却が早い。 日本人がウェットすぎるのだろうか。あれだけ人が死んでいるのにそのあとに何の痕跡もない。ただ真っ黒に焼けた建物が残っているばかりなのである。これは、まだ弾が飛んでいる当時にも感じたことだった。日本人のカメラマンが亡くなったが、現場には花ひとつあるわけではない。すぐに献花台ができる日本とは大違いだ。 あちこちの関係者と会ううちに赤シャツと黄シャツなどの対立はそんなに単純なことではないこともわかってきた。 以前から書いているよ