追悼 勝谷誠彦(前編) :花房観音

小説家・勝谷誠彦の死

花房観音(小説家)

「ママ」と語りかける声が流れてくると、あなたを思い出さずにいられませんでした。クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーを描いた映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観ているときのことです。コンプレックス、富を手に入れ名が売れたゆえの傲慢さと、そこから生じる周囲の人との確執、家族への愛情、孤独、そして死を招いた病……と、この映画を観ていると、あなたのことをどうしても連想してしまいました。
 最後のほうは嗚咽を堪えるのに必死でした。映画のタイトルにもなった「ボヘミアン・ラプソディ」の「ママ」と語りかける部分の歌詞は、まるであなたの独り言のようでした。

 あなたが亡くなる数日前、私は仕事部屋に寝転がってぼんやりとしていました。そのとき、ふと本棚を見ると、あなたの本「平壌で朝食を。」が目に留まったのです。本棚の一番下の段なので、普段は視界に入らないのですが、横になっていたので、私の顔のすぐ横にありました。
 そういえばと、私はその本を久しぶりに手にとりました。もともと「小説宝石」という文芸誌に書いた短編を集めた単行本「彼岸まで。」が2010年に文庫化されたものです。解説は、この有料メールの読者でもある水道橋博士さんでした。
 この本には、「ママ。」という、母の死について書いた話が載っていたなと、ページを開きました。あくまで「小説」ではありますが、語り手である「誠彦」と、その状況は、明らかにあなたのことなので、「私小説」です。
 あなたが酒で身体を壊し入院したあと、いえ、もっとずっと前、今年の二月に大阪で会ったときから、私はあなたが語った「ママ」の話を何度か思いだしていたのです。2014年にあなたにインタビューをしたとき、俺がこういう人間になったのは母親の影響が大きいと口にしていました。
「ママ」の話を聞くと、あなたの性格は母親の血が濃いとしか思えませんでした。その際に、「ママ」が酒が好き過ぎて……とも知りました。久々に「ママ。」という短編小説を読み始めると、ある一文が目に留まりました。

「酒が好きで、結局は酒によって緩慢な自殺とも言えるママにできれば故郷の旨い酒を飲ましてやろうと、心のどこかで思っていたからかもしれないのであった」

 という一文です。
「飲んだら死ぬ。酒を止めれば生きる」と言われていたのに、退院したあと、あなたが酒を断ったといいながら飲んでいるのは聞いていました。あなたが大好きだった「ママ」と、同じことしていると思いながら、私は「ママ。」を読み終えました。この本に書かれている「ママ」についての記述が本当ならば、ママも11月に亡くなっているんですね。過去の有料メールを読み返すと、あなたの「パパ」が亡くなったのもこの時期でした。11月の頭にあなたは有料メールで、父親の通夜と告別式のことを書きました。
 あなたはあのとき、それまで内緒にしていた、別れた妻と娘たちの話を書きました。私はそれ以前にあなたから聞いてはいましたが、「内緒だ」と言われていたので、あなたがいきなり告白したのに驚きました。今思うと、お父さんが亡くなったとき、あなたの何かが壊れた、タガが外れたような気がしてなりません。
 有料メールの読者なら誰でもご存じでしょうが、それから頻繁に別れた家族についての未練や思慕が度々登場するようになります。どこも報道しませんでしたが、兵庫県知事選挙落選の際の記者会見でも、途中から「私の別れた妻は」と話はじめ、どうして今その話をするのだろうと戸惑った覚えがあります。
 どうして、という理由は推測するしかありませんが、あなたはもしかして、父親を亡くしたときに、自らが手を離した「家族」を乞う気持ちを抑えきれなくなったのでしょうか。

「ママ。」には、こんな一文もあります。母親に溺愛され期待された息子だったあなたは、灘中に入り成績が落ち、「彼女の自慢の装飾品ではなくなった私を見る眼差しは常に鋭い棘を含み、子供にとってただひとり還るべき存在の母親に鎧われては、私は家を出て旅に遊ぶしかなかったのである。それから、ずっと旅をしてきた」そう、書いています。
 以前、インタビューした際に、「灘中に入ったら劣等生になったので、ママのプライドが微塵に砕けて、どうしてお前はそんなバカなのって言われましたね。『毎晩、宝塚ホテルまで言って離乳食のポタージュ食べさせたのに、どうしてこんなバカができたの』と嘆いていたと聞いて、記事にもしました。http://hanabusa-kannon.com/joko/1545
 灘校から東大に行けなかったことは、あなたの劣等感のひとつだったのは、有料メールに「灘校自慢」が並ぶのと、卒業した早稲田大学のことをよく言わないことに現れています。それはもしかして、東大に行けなかったということよりも、母親の期待にそえなかったことが、あなたの傷だったのかもしれません。

 あなたは多くの劣等感を抱えていて、それを振り払うかのように、ときに傲慢な態度や発言をしました。劣等感が強いからこそ、優越感を必要とし、人より優位に立とうと人を見下し、傲慢になるのです。自分自身がそうだから、劣等感とセットの傲慢さに、私は敏感です。
 有料メールで近年繰り返された「首相の友達」「灘校」「元文藝春秋」自慢にうんざりしていると私は以前書きましたが、あなたの心がそれらの権威的な肩書に頼らなければいけないほどに弱っているのだと思うと悲しかったのです。
 あなたは常に、自信の無さと傲慢さの狭間を揺れ動き、またそんな自分を誰よりもわかっていたからこそ傷ついていました。あなたが亡くなったあと、あなたを知る人たちの多くが「繊細な人だった」とコメントしていました。
 私もあなたは繊細過ぎるほど繊細で、そんなに傷つきながら生きていくのは大変だと思いながらも、繊細さは小説家としての能力のひとつだと考えていました。けれどもしその繊細さであなたが命を縮めたのだとしたら、私は自分の繊細さを、ドブ川に流して捨ててしまいたい。あなたが亡くなったとき、そう思いました。

 あなたの最大のコンプレックスは「小説」でした。「俺は芥川賞コンプレックスなんだ」とも言ってましたね。芥川賞は純文学の新人に送られる賞です。サンテレビの「カツヤマサヒコSHOW」第一回のゲストである百田尚樹さんとの対談で、「文学部文芸専攻出身なので、文学に対する思い入れがものすごくあるんです」と語っています。
 そして芥川賞を主催している文藝春秋の純文学文芸誌「文學界」に掲載された「ディアスボラ」が芥川賞の候補にもならなかったことを、ひどく気にしていました。「俺は文藝春秋と喧嘩して辞めたから取れないだよ」と言っていました。確かに文学賞というのは政治的な背景がないとは言えないけれど、それはあなたが創作した言い訳だと思っていました。
 そもそも文藝春秋とそんな険悪なら、「文學界」に載らないし、その後も依頼があるわけがないでしょう。文藝春秋から小説を出す話があったのは、あなたも有料メールで何度か書いていたではないですか。結局、書けないままだったけれど。

 世の中には、小説家といえども、私のように文学賞に縁のない、最初から圏外の小説家もたくさんいるし、何度も繰り返し賞の候補になって受賞できない人もいます。だから一作が、賞の、しかも日本で一番有名な文学賞の候補にならなかったぐらいで傷つくなんてと思っていましたが、それだけあなたの「文学」に対する思い入れは強かったのです。
 あなたの「本」になった小説は、「平壌で朝食を。」と「ディアスボラ」の二冊です。それぞれ単行本が文庫になったものなので、「二冊」とします。あれだけ筆が早く、何でも書けて、多くの本を刊行しているのに、二冊だけです。そしてあなたは有料メールでも、私に対しても「そろそろ本腰入れて小説を書かねば」と言っていましたし、出版社と具体的な話もしていたはずなのに、結局、書きませんでした。
 誰よりも小説に強く思い入れがあり、小説を書きたい気持ちも強かった人なのに。いえ、だからこそ、書けなかったのです。東良さんもヨロンさんも、あなたの小説への思い入れの強さ、そして書けなかったことについて追悼文やコラムでふれていましたが、あなたを知る周りの人なら、誰だってそう思うでしょう。
 そしてもどかしく思っていたはずです。私も、そうでした。小説を書きたいという強い気持ちがあり、才能だってあった。けれど書かない、書けない、つまりはひどく怖がっていたのがわかりました。「なんで書かないの」と思っていたし、あなた自身が苦しんでいるようにも見えました。

 三年前のあなたの誕生日は「カツヤマサヒコSHOW」の京都ロケで、朝から「俺、今日誕生日なんだよな……ロケ終わってから用事ある?」と聞かれました。「マネージャーと一緒に過ごせばいいじゃないですか」と返すと、「それは嫌だ」と悲しそうに言うので、「じゃあ飲みましょう」とロケ終了後に京都駅前の立ち飲み屋に行きました。三人で飲んでいたときも、小説の話になり、「書くよ、来年はちゃんと小説を書く」と言っていました。
 あなたが2017年に兵庫県知事選挙に出馬を表明したのをニュースで知ったとき、私は正直「逃げた」と思いました。小説から、逃げたのだと。知事になれば時間的に小説を書くことができなくなる、そうやって退路を断とうとしたのではないか、と。
 世の中には週に少ししか働かないような知事もいるらしいのですが、あなたのことですから、休みなく全力で県のために動くでしょう。そうなると、小説どころではありません。だから、「逃げた」と思ったのです。
 あなたに「遊びに来て」と言われ、私が事務所開きの日に三宮に行くと、遊びに来たはずなのに、マスコミの前で喋らされ、そのあとすっかり知事選に巻き込まれてしまいました。「遊びに来て」と言ったのは、「選挙の応援して」と言われたら、私が断るのをわかっていたのでしょう。
 けれど実際に事務所に行き、そのあと三宮周辺で演説をするあなたにつきあって、私はワクワクして楽しんでいました。こんな面白い経験ができるなんて、と高揚していました。演説について歩く私に、あなたが「これ、書くだろ」と声をかけたので、「うん」と答えたのは、小説家だから自分の身に起こることは全て書くというのをあなたがわかっている人だったからです。
 知事選は現職に敗れましたが、あなたはとても真剣に戦っていたし、ヨロンさん、T-1さん、ボランティアに駆けつけてくれた人たちのおかげで、64万票をとりました。これは、すごいことです。あんなに準備期間が短く、どこの党からの応援を得ることもできず、すべて自分たちの「足」で稼いだ票で、ここまで来たのですから。
 けれどあなたは落選後、真剣だった分の反動でしょうか、父親が亡くなったとき「壊れた」と私が感じた以上に、崩壊していくように思いました。あなたは私が思っているよりもずっと、弱く脆かった。

 今年の2月に大阪の血気酒会で会ったときに、私は不安になりました。食べないのに飲み続け、腹が膨れており、肌も荒れ、身体が悪いのが見てわかったからです。人と話しているときはいつもの「勝谷誠彦」でしたが、ひとりになったときの表情が、ひどく暗く、虚ろでした。私はそのときに、「この人、このままでは死ぬんじゃないか」と思いました。
 その頃から、ヨロンさんとあなたの状態についてよく連絡とり合うようになり、アルコール依存症に詳しい人に相談したり、夫がアルコール依存症だった西原理恵子さんがアルコール依存症について書かれた本も読みました。この西原さんの元夫の鴨志田譲さんを、西原さんに紹介したのがあなただというのも皮肉な話です。
 あなたに直接、「お酒やめたほうがいいよ」というメールもしましたが、「やめられないんだよ」と、短い返事が来ただけでした。
 結局、私は今年の2月以来、あなたに会っていません。「東京来たら会おう」というやり取りはしていましたが、私が夏頃、すさまじく多忙だったのや、すれ違いもあり、会う機会を逃しました。入院中にお見舞いに行くことも考えたのですが、結局、ヨロンさんにあなたへの手紙を託しただけで、やめました。
 私は怖かったのです。目の前で、酒を飲まれることや、「壊れた」あなたに会うこと、そして最初の入院時の20歳以上老けたのではないかという写真を見て怯えました。自分があなたに対してきついことを言ってしまいそうなことも、もしくは同情の表情が隠せなく、あなたを傷つけてしまうのも怖かった。
 そうして、再会したのは、あなたのお通夜でした。メールだけで、直接会わなかったことが、よかったのかどうか、私にはわかりません。けれど、「あのとき会っておけば」という後悔も、不思議とないのです。

後編に続く