追悼 勝谷誠彦(後編) :花房観音

(後編)

 あなたは本当に自分を曲げず……といえば聞こえがいいのですが、思い通りにならないと容赦なく怒り、恩のある人たちに対しても高圧的になり、あなたの言葉で不愉快になり、嫌な思いをした人はたくさんいると思います。
 特に選挙が終わったあとは、必死にあなたのために動いてくれたヨロンさんやT-1さん、ボランティアの人たち、投票してくれた人たちに対する感謝の態度も示さず、「暇だ」「負け犬」などと拗ねてふてくされたような言葉を有料メールに書き連ねることが、とても不快でした。
 大人げない……のは今さらのことでしたけれど、みんなが大変な思いをして、落選したときも悔しくて泣いていた姿を私は見ていたので、あなたに対しては失望と腹立たしさが膨らみました。
「知事にならなくてよかった」と多くの人が、あなたの態度を見て思ったことでしょう。そんなふうに思わせるのは、一番いけないことのはずなのに。
 あなたはあの頃、「暇だ」と毎日昼から酒を飲んでいましたが、「そんなに暇なら今度こそ小説を書けばどうだ」と人が思うこともわかっていたようで、「どこからも小説の依頼がない」などと書いていましたね。
 それもあなたのズルい小さな嘘でした。小説を書きさえすれば出版してくれる複数の版元がいました。あなたはよく、弱さゆえの小さな嘘を吐きましたが、あなたは悪人ではないので、すぐ見抜かれてしまう程度の嘘ばかりなのです。だから罪はないと、私は思っていました。そうして心を守らなければいけないほど、あなたは弱かった。

 私は信じていたのです。いつか、あなたが、くだらないプライドや芥川賞に対する執着を捨て、多くの人が心を躍らせる小説を世に出してくれることを。
 有料メールに書いていた「てんそこ」こと「天国のいちばん底」は、きっと有料メールという、「限定された自分の読者」にしか読まれない、つまりは批評等の対象外であるからこそ、長く書き続けられたのでしょう。
 自分の作品を賞の選考委員に酷評されたり、ネットでボロカスに書かれて、「書くのが怖くなってそのまま書けなくなる」人は、たくさんいます。名前が、本が、多くの人の目にとまればとまるほど、賞賛以上の、批評とはいえぬ中傷などが著者にはふりかかってきても、それらは自分で背負わねばなりません。
 私だとて、あなたの知名度から比べたら、全く無名に近い小説家で、実際にそんな売れているわけでもないですが、今まで散々の批判、誹謗中傷は受けました。でもそれでも書いていかねばならないのです。傷つき、落ち込みはするけれど、書かねばならない。私ですらそうなのだから、誰よりも小説を書きたいという気持ちの強いあなたは、いつか乗り越えて、書いてくれるものだと信じていました。
 そのときはじめて、あなたは小説という呪縛から逃れられるはずだったのです。最期まで未練を綴り、恋しがっていた別れた妻との離婚原因も、あなたの小説家コンプレックスだったのはあなたから聞きました。
 告別式のとき、はじめてあなたの娘さんたちにお会いしました。自慢の娘たちで、上の娘さんが大学に合格したときは、すごくうれしそうなメールを私にくれましたね。最初の入院の際、別れた妻が毎日病院に来てくれているという話を聞いたときは、「よかったね」と思いました。あなたは父親の死から、亡くなるまで、別れた家族を恋しがる気持ちをあんなに綴っていましたから。あなたは「天涯孤独」という言葉もよく使いましたけれど、「家族」が大好きで、愛していました。

 2度目の東京の病院への入院中、隠れて飲酒していたと聞いたときは、ドンと、背中を押され、暗い穴に突き落とされた気分になりました。「飲んだら死ぬ、酒を断てば生きられる」のに、あなたは生きる道を自ら断とうとした。ヨロンさん、T-1さん、別れた奥さまは、あなたから酒を遠ざけようと必死でしたし、この有料メールの読者だって、それを願わなかった人はいないはずです。
 みんな、あなたの振る舞いに、苦しんでいました。あなたを死なせたくなかったのに、あなたが酒を断てなかったからです。アルコール依存症という病気の怖さと、そこに辿りついてしまった「生きよう」という望みを失っているあなたの絶望の深さを思いました。いえ、あなたの中には「生きよう」という気持ちはあったと思っています。このままじゃ死ねない、と。けれどそれ以上に、酒があなたを離さなかった。
 そうして尼崎に戻り、すぐ意識不明になり、あなたは死にました。ちょうどあのとき、私はコラムの件で、ヨロンさんとやり取りをしていて、「もう駄目かも」と聞きながらも、まだ望みはあるのではと思っていました。
 あなたは悪運が強い。最初の入院のときだって、集中治療室に入り、あのまま死んでもおかしくなかったのに、断酒してすごい回復力を見せました。イラクの取材で生き残り、墜落した日航機に乗るはずだったのに運よく逃れ、あなたは異常なほど悪運が強いはずだった。
 だけどヨロンさんとやり取りしている最中に、あなたは死にました。その2週間前に東京で血気酒会に出たあと、ヨロンさんと飲んで、覚悟しないといけないし、もし亡くなっても、「仕方がない」と受け入れないといけないのだなと思っていたけれど、それでもまさかこんな早くにとは思わず、呆然としました。

 訃報を聞いたとき、私の枕元には、数日前に本棚から引っ張り出した「平壌にて朝食を。」がありましたが、開く気にはなれませんでした。ただ、あなたは旅を終え、最後に「ママ」の元に戻ってきたのだとは、思いました。そして自分でも驚くほど泣き続け、目が腫れ、頭が痛くなりました。「仕方ない」と受け入れるつもりだったのに、未だにそれはできません。
 今、少しばかり時間が経ち、悲しいという気持ちだけではなく、悔しいのと、腹が立つので、私はあんなに感情を崩壊させたのだとわかります。
 悔しいのです。あなたが「小説家」として死ななかったことが。

 どこのメディアでも「辛口コラムニスト」などとあなたの名前の前に肩書をつけました。「小説家」ではないのです。ついでにいうと、私はあなたを辛口だと思ったことはありません。正直な人だなというだけです。
 あなたはあんなにも、小説を書きたがっていたのに、書けずに死んだ。おそらく週刊誌等があなたの死をとりあげても、文芸誌が「小説家」として追悼することはないでしょう。だってあなたは、小説を書かなかったもの。
 世の中の多くの人は、「辛口コラムニスト」「コメンテーター」としか思っていない。「俺の小説は売れない」とか、私が本を出すと「いいなー、うらやましい」って言ってたけど、書いて出せばいいじゃんといつも思っていました。それをしないのは、あなたでしょ、とも。
 亡くなる前は腹立たしいこともあったし、周りの人に対する態度にうんざりしていたけれど、私自身は、出会ったときから大事に、優しくしてもらっていました。
 でも、次々と小説の本を出し、「勝谷さんも書けばいいのに」と簡単に口にする私が追い詰めていた部分もあったかもしれないとも、ずっと考えています。
 私はデビューが官能の賞だったこともあり、様々なジャンルの本をたくさん出そうが、小説家扱いされない、小説の世界の人に相手にされない、露骨に侮蔑されることは、未だにたまにあります。あなたが焦がれた文学賞だって、縁はありません。そんな私のような無名の小説家を、あなたは大事にして敬意を示し続けてくれて、本当に嬉しかったし自信になりました。
 私が書き続けるのは、「小説を書きたい」という気持ちもありますが、それ以上に現実的な生活の糧だからです。書かないと、本を出さないと、私は生活できません。食うために、不可能なジャンル以外なら、書けと言われればなんでも書きます。売れなくても、評価されなくても、そんなことを気にする前に、次また書かないと、生活に困るのです。
 あなたのように賞にこだわるのは、違う、とも思っていました。賞は結果的にもらえるものであり、新人賞以外の文学賞は目標にするものではないと私は思っています。賞に囚われて書くと、自由でなくなる気がするのです。
 あなたには十分な財産と収入があり、私のように生活の糧として小説を書く必要はなかった。でもだからこその賞への執着や、評価されることの怖さが、あなたを雁字搦めにしていました。けれど、50半ばを過ぎ、あなたはその呪縛を解いてもよかった。物書きは定年もなく、年齢を重ねた50代、60代で傑作を書く人はたくさんいます。あなたは、東良美季さんが追悼文で書いていたように、「あとは書くだけ」でした。

 告別式のあと、マネージャーのT-1さんから、あなたの部屋には膨大な量の、小説のプロットが書かれたノートがあったと聞きました。プロットというのは、小説を書くためのあらすじのようなものです。あなたには「書くべきこと」「書きたいこと」がそんなにもあったのだという事実が、私には何よりショックでした。
 それらの小説は、もう生まれてきません。同じプロットで誰かが書いても、あなたの小説ではない。あなたが生み出そうとした、多くの小説は、世に出ず、葬られます。あなたの死と共に、たくさんの小説が葬られ墓場で眠り蘇ることはない。それが私には、何より悲しく、そして恐ろしいことでした。
 あなたが病院に酒を持ち込んで飲んでいたと聞いたとき以上に、私は深く暗い穴に突き落とされた気分になりました。小説という、底の見えない、得体のしれない、深くて暗い穴に。
 小説を生業にしている私は、誰よりも小説を書きたいあなたの、服の袖ぐらいを掴んでいたのに、あなたに振り払われてしまい、その穴に落ちてしまった、そんなふうに思いました。けれど本当に穴に落ちたのは、私ではなく、あなただったのです。
 小説って、何でしょう。あなたがそこまで執着するのを理解できない人も、たくさんいるはずです。一部の売れっ子小説家を除けば、ほとんどの小説は売れません。びっくりするほど、儲かりません。小説だけで生活している小説家も、実は少ないです。副業をしないとやっていけないのです。
 取材して時間をかけて何度も直した小説が世に出ても、賞賛より酷評のほうが目に付き、サラリーマンが2ヶ月で稼ぐ給料以下の印税しか入らないなんてことのほうが、多いです。はっきり言って、割りの悪い仕事です。
 それでも、なんで小説を書いているのでしょうか、書きたいのでしょうか、書くことに執着するのでしょうか。そして書きたくて、一度デビューしても、この出版不況の折は、出版社から本を出すことができない小説家も、たくさんいます、
 そんな不安定な仕事である「小説家」に、あなたは強く焦がれていました。焦がれすぎて、その火に焼き尽くされてしまった。私はひとり暗く未来の見えない世界に、取り残された気分です。あなたの分まで私はこれからも頑張って小説を書いていくなんて、間違っても言えません。
 あなたの死は、世に出なかった多くの小説の死でもあり、私にとって、絶望を目の当たりにされる出来事でもありました。今まで気づいてはいたけれど、前に進み続けるために、見ぬふりをしていた、絶望を。
 あなたの苦しさ、絶望に、私は取り込まれてしまいそうな恐怖と、戦っています。あれだけ書きたかったあなたが、生きるよりも、死に囚われてしまったという、恐ろしい事実と。
 あなたの死を「太く短く生きた」「好きなことして生きた」からと、受け入れようという人たちもいるけれど、私には無理です。
 無念、という言葉しか浮かびません。
 これから先もずっと、私が小説を書いて生きていく限りは、あなたの死について考え続けていくでしょう。

 めんどくさい男だなと、ずっと思っていました。だけど、それでも嫌いになれなかったのは、一緒にいると楽しくて、いろんな世界を見せてくれたからです。とても優しい人であるのは間違いありません。
 お通夜、告別式で、選挙ボランティアの皆さん、サンテレビの「カツヤマサヒコSHOW」チーム、共通の知人の出版関係者などと再会して、まるで同窓会のようでした。あなたがいなかったら、この人たちにも出会えませんでした。そしてみんな、あなたに困らされたことがたくさんあるはずなのに、泣いていました。
 あなたは尼崎で死にたかったのではないでしょうか。大好きなパパとママと暮らし、勝谷家を守る弟さんが住む、尼崎で。尼崎は、先の兵庫県知事選挙で、唯一あなたが現職より票をとった町です。だから、東京の病院を退院し、尼崎に戻ってすぐ、あなたは死んだのではないかと思いました。
 また、あなたが死んだ日は、最後まであなたに一番苦しめられ、傍にい続けたヨロンさんが神戸に来る予定をしている日でもありました。「今日、神戸に行くので、勝谷の様子を見てきます」とヨロンさんとやり取りしているときに、あなたは死にました。
 選挙をはじめ、毎朝のパソコンの不調、あなたはヨロンさんに頼りっぱなしでした。「天涯孤独」とか言いながら、ひとりじゃ生きていけない人だった。
 パソコンのことで朝からあなたがヨロンさんに頼るのは、まるで「のび太」がドラえもんを頼るようでした。すぐに助けて~と頼る、ダメなのび太。だとしたら、T-1さんがスネ夫で、元の妻がしずかちゃんで、のび太に「のび太のくせに生意気だ」「俺のものは俺のも、お前のものは俺のもの」とか偉そうにいうジャイアンが私なのか、とも考えていました。
 そんな頼りっぱなしだったヨロンさんが兵庫県に来る日に死ぬなんて、狙ったようです。最後まで面倒を見させようとしたんだなと、弔辞を読むヨロンさんを見て、そう思いました。
 けれど、ヨロンさんやT-1さんが、あなたの棺を担ぐ姿なんて、見たくなかった。
 もう悪態を吐くことのない、あなたの静かな棺の中の顔も、本当は見たくなかった。
 だから私はまだ「さようなら」とここに書く気にはなれません。

 あなたは有名人でしたが、「小説家」だと、思っていない人のほうが多いでしょう。けれどせめて、これを読んでいる人たちには、勝谷誠彦は小説家だったということは、覚えていて欲しいのです。
 生まれるはずだった多くの物語と共に葬られた、小説家だと。

花房観音

2014年、勝谷誠彦ロングインタビュー
http://hanabusa-kannon.com/joko/1545