その3 中学〜高校
「灘校の落ちこぼれ」兄の自虐的なつぶやきは、日記でよく散見されたフレーズである。しかし、兄が灘中を目指して受験勉強をしていた時、3000人程度の模擬試験で100番を下回ったことは無く、一桁の順位も数回経験、灘中学入試でもかなり上位の成績で入学した、と両親からは聞いている。ところが、中高一貫校である灘校は、良くも悪くも放任主義、昔の帝国大学のように個性豊かな教師達が、独自の方針と理論を6年間にわたって展開するため、最初に乗り遅れると、勝谷兄弟のように悲惨な運命を辿ることとなる。かく言う私も、中高時代の成績は悪く、兵庫県下一斉の模擬試験で県平均を下回った時には「お前のようなやつは灘高始まって以来だ!」と罵声を浴び、担任の数学の先生からは卒業時に「君の成績は単調減少やったな」とささやかれたものである。ただ教科全般に出来の悪かった私と異なり、兄の成績は極端であり、いわゆる理系科目は学年で最下位に近く、文系科目は優秀であった。後に、兄弟でよく笑い話にしたのが、中高時代に習わない内容を中学校1年生時に教えられた物理の授業だ。「歪み」「丸棒の捻れ」などを小学校の理科の知識しかないところに突然説明され、ここでいきなり頭が捻れた我々兄弟は、その後回復することなく、物理、化学、数学、英語と落ちこぼれていく。一方で、小学校時代からトーマス・マンの「魔の山」や「ヴェニスに死す」などを愛読し、中学に入ってからは、歴史小説を読み漁り、資本論から相対性理論まで手を広げていた兄にとって、国語、社会、生物、地学などは、趣味を勉強にしているようなもので、自ずから得意科目となっていった。この頃得た知識が蘊蓄となり、××日記やTVでのコメントなどを支えていたものと思われる。
灘校時代が舞台の「てんそこ」には、当時の同級生、教師達が若干の脚色・演出を施され描かれているが、定期試験で赤点を連発し、担任泣かせの異名をとった問題児の兄に対し、担任の先生から我が家に頻回に電話がかるようになったのは、中学2-3年の頃であった。手塩にかけてエリート養成校へ入学させたと信じていたパパとママは絶句し、真面目な父は仕事に没頭することで邪念を払拭し、母はアルコールで気を紛らわせるようになっていった。一方で、両親の管理という呪縛から逃れた誠彦は、勉学に落ちこぼれても学校生活が快適に過ごせる居場所を見つけることに成功する。兄が灘中に入学した当時は未だ出澤(いでざわ)先生(故人)が地学の授業を担当されており、この「勝谷君でしゅね、よろひゅく」と息が漏れるように不思議なリズムで話される先生と兄の出会いが、彼の運命を大きく左右する地学部入部へと誘うこととなった。実は出澤先生が地学部顧問を務められた期間は1-2年だけで、その後、地学を正式に教える教師は灘校にはかなり長い間(私が灘高を卒業する直前まで)居らず、非常に存在感の乏しいN瀬先生が代理顧問を務めたため、地学部の部室は治外法権の巣窟と化していく。「おい、勝谷はどこ行った?」授業中に教師が生徒に尋ねると「いつものとこですやん」と一斉に指さす先には、ソフトボールに興じる兄と地学部メンバーが校庭にいる風景は決して珍しいものではなかったようだ。後日談となるが、毎年12月末には、当時のメンバーが集まってソフトボールをする催しが現在も続いており、今回は兄を偲びながら東京のグランドでプレイをしたと写真付きのメールを同級生のO先生(現在は整形外科のカリスマ)から頂戴した。
地学部地質斑の仕事はソフトボールではないかとも揶揄されたが、実は結構頻繁に「巡検」と呼ばれる石堀り旅行に出掛けていた。中でも恵那山周辺の石切場への巡検が多く、「てんそこ」の舞台にも再三登場している。採掘された水晶や化石などは兄の軽井沢の家に残っているが、未だ小学生だった私には、ヘルメットを被って腰にハンマーをぶら下げて出掛ける兄が、少し眩しく映ったものである。兄が小学校時代の頃、兵庫県下の県立自然公園を全て回る小旅行に父がよく息子達を連れ出してくれていたが、この時のお気に入りの場所に黒川渓谷がある。兵庫県を代表する川の一つである市川の源流に近い渓谷で、現在では手前に大きなロックフィルダムの黒川ダム(堰堤98m)が出来、下流の多々良木ダムと合わせて揚水式発電としては日本最大の発電量を誇るが、我々兄弟が訪れていた頃にはダムは無く、美しい清流で川遊びをしたことが懐かしい。この川沿いに栄えたのが生野銀山である。石見銀山が世界遺産に指定され脚光浴びているが、曾ては日本を代表する銀山として栄え、当時の面影を残すテーマパークとして史跡生野銀山がオープンしたのは昭和49年のことであった。中でも三菱ミネラルコレクション(和田コレクション)と呼ばれた鉱物の展示は兄の興味を刺激し、後に地学部で採掘も行えるようになった兄が熱く私に解説してくれたことをよく覚えている。
さて、この地学部の仲間達とは巡検やソフトボール以外でも様々な遊びに興じていた。当時の我が家は、道路側が中の見えないブロック塀で覆われており、内側は道に沿う形で横向きに車が2台縦列駐車できるスペースとなっていた。ここに卓球台を設置して、兄弟や親子で卓球をしていたのだが、これが地学部連中の目に留まり、学校帰りに我が家で卓球に興じるメンバーが後を絶たなかった。彼らは塀を乗り越え侵入し、自分の家のように卓球台を出してピンポンに励むため、私が小学校から帰ると鍵の閉まったカーポートの中で、髭の生え始めた中学生達が「おや、友ちゃんお帰り」と出迎えてくれることもよくあった。両親も彼らの来襲には意外に寛容であった。この仲間達と過ごす地学部の居心地がよいため、兄は殆ど理解の出来ない授業が多かったにも関わらず、6年間を皆勤で通学した。そんな誠彦の灘校生活において、メリハリを付ける2大イベントが、文化祭と体育祭である。文化祭では、展示作りに各クラブが創意工夫を凝らす。兄の中高6年間の展示で最大の自慢は「動くマントル模型」であった。マントル対流に乗って大陸が移動する様を、ハンドルを回すことで体感し、プレートテクトニクス理論を「見える化」した模型である。2日間の展示期間の後半には壊れてズブズブになってしまうのだが、地学部時代の兄の最大の宝物は、掘り当てた紫水晶よりも、当時の最先端理論を「見える化」したこの模型であったような気がする。一方の体育祭では、立て看板作りに汗を流していた。ベニヤ板数十枚を使い、校庭の高いネット一杯に拡がる超大型立て看板を作成する。グランドに残って遅くまで作業するのだが、消灯の時間を過ぎて間に合わないときは、近くの住吉川の河原にある「清流の道」と呼ばれるコンクリート道にカンテラを持ち込んでの作業が深夜にまで及んだ。余談だが、この清流の道と名付けられ、現在では市民の憩いのスペースのようにマンションの広告にも使われているが、実は土砂を運ぶダンプ道であった。兄は唾棄するように「神戸株式会社」とよくコメントしていたが、ポートアイランドや六甲アイランドの埋め立てに、六甲山を削り、この住吉川の河原にダンプ専用に作った道で膨大な土砂を運び埋め立てを行った名残りの道なのである。灘校の冬には長距離走が組み込まれており、この清流の道を数キロ走らされたものである。灘校の生徒歌には「住吉河原秋闌けて」や「雪清浄の六甲や」などのフレーズがあるが、住吉川に差し掛かると、今でも生徒歌と共に当時の立て看板作りやマラソンが思い起こされる。
落ちこぼれながらも高校に無事進学(普通は問題になることはないのだが、兄の場合は「お宅の息子さん、公立高校へ戻られるという御希望は本当にないのですか」と何度も念押しされたと後に父は語っていた)した兄は、驚天動地の行動に出る。高校一年生として、灘校始まって以来初めて生徒会長に立候補したのである。以前より生意気な後輩として有名になっていた兄は、上級生から眼を付けられ、中学時代には柔道で気合を入れると称して腕をへし折られたエピソードも持っていた。その恨みがあった訳ではないと思われるが、これまで高校2年生が立候補するのが不文律になっていた中で、2年生候補を相手に立候補するという暴挙に出た。この選挙の時期にNHKが取材に入っていたことから、事態はさらに複雑となる。教育テレビの土曜の夜に「若い広場」という若者向けの情報発信番組が放映されており、この取材クルーが「一体全体、ガリ勉の塊と言われる灘校の実態はどうなっているのか」という興味本位で入り込んでいたのだ。この前代未聞の生徒選挙は、当然のごとく格好の取材対象となった。視聴率の上がらない教育テレビの番宣も兼ねて、この番組の紹介が、朝の連続テレビ小説も前後などに頻回に流された。「灘校で、お茶汲みして回っているの、先生とこのぼっちゃんやないですか?」と父は何度も患者さんに尋ねられたというが、「いや、取材は来てたけど、僕は映らないように、ちゃんと手を回しといたから大丈夫だよ」とあくまでもシラを切り通す兄に騙され、受験直前の私も灘校紹介をTVで見られるよいチャンスとばかりに家族全員で「若い広場」の始まりを茶の間で楽しみに待った。ところが、番組の柱は生徒会選挙を取り上げたものとなっており、学ランに鉢巻きを締め、取り巻き2名と一緒に5L入りのお茶入りヤカンを抱えて各教室を周り、生徒達にお茶を入れながら、声を枯らして選挙演説をぶつ兄の姿がそこにあった。この時に感じたエクスタシーが、数十年後に兄を県知事選挙まで駆り立てたことは想像に難くない。ちなみに、2年生候補の戦友、後藤啓二さん(全国犯罪被害者の会顧問弁護士)とは後に朋友となり、カツヤマサヒコSHOWにも出演いただいている。一方の私は、この選挙から現在に至るまで「勝谷誠彦の弟」としてのレッテルを剥がされたことは1日としてない。
灘高生活をフルに楽しむ誠彦は、地学部地質斑の仲間達と日々ソフトボールに汗を流し、夜はミナミの通天閣周辺の飲み屋街に繰り出すなど自由奔放な毎日を過ごしていた。中学時代の複数回呼び出しにすっかり参ってしまったママは酒浸りで早い時間に酔いつぶれて就眠、仕事に忙殺されながら毎晩ビール大瓶3本の晩酌を欠かさないパパは兄が帰宅する頃にはご機嫌になっており、「朝玄関に靴脱いであったら息子が帰ったのがわかるから、俺ん家はそれでOKなんだよ」と誠彦は友人に豪語していた。ちょうどその頃、私も同じ保田塾を経て灘中学へ入学、兄は生徒会長の任期を終えようとする高校2年生であった。私も兄と同じ地学部に入ったのであるが、声変わりもしていない小さな弟(当時の私は未だ身長が140cmにも満たなかった)に常日頃の素行を観察されることを嫌った兄は「俺が居るときは部室の出入りするんじゃないぞ」と脅しをかけてきた。当時の部室には、アメジストや水晶など煌めく石や望遠鏡が並び、ごく普通に酒瓶も転がっているような状況で、教師の力の及ばぬ治外法権の部屋は世間知らずの小さな私にとって「見てはいけない」部屋であったのは確かだ。この部室を中心とする灘高生活が誠彦の人生の中で最も光り輝く時代として本人に刻み込まれたことは、この日記の読者のみなさんや「てんそこ」を読まれた方はお気づきのことであろう。
兄の生徒会長時代の大きな仕事の一つに生徒会誌の編纂があった。当時から「物書き」を自負する兄が、その内容、装丁など「斬新かつ凝ったものにしてやるぞ」と意気込んだ一冊だ。表紙には、点描法で書かれた卵が並んでいる。この卵、地学部きっての異才、K西さんがフリーハンドで描いたもので、9個の卵が寸分狂わず表紙に鎮座している。会誌の目玉として、兄は小学校より心酔する北杜夫先生に寄稿を依頼し、その玉稿を載せる(直筆を写真製版したように記憶している)ことに成功している。これ以後、兄は北先生と年賀状のやりとりも出来るようになり、毎年鬱に苦しむ先生から、蛙が布団を被って寝ているイラストに一筆添えた年賀状が届くのを心待ちにしていた。北先生ご一家との交遊はその後も続き、カツヤマサヒコSHOWに娘の斎藤由香さんにご登場いただいたのは記憶に新しいところである。その他の内容については、当時の会誌が拙宅には残っていないので確認できないが、阪神淡路大震災の際に家族よりも生徒会誌の無事を真っ先に確認した兄なので、軽井沢の家か東京の事務所には残っている筈の生徒会誌を今一度読んでみたいと思っている。