「小説」的だった勝谷誠彦の生き方
東良美季(作家)

2004年11月22日のことだった。当時連載を持っていたアダルトビデオ批評誌『ビデオ・ザ・ワールド』の吉田浩之編集長から、「吉武さんが勝谷誠彦のホームページ見てたら、東良さんのことを書いていたとのことです」と短いメールが来た。「吉武さん」とは同じ会社で『楽しい熱帯魚』という雑誌の編集長をしていた男で、僕がまだ23才の駆け出しアダルト誌編集者だった頃、直属の上司だった。なぜこんな一見関係ない人物のことまで詳しく書くかというと、後々、勝谷とはその当時から因縁があったとわかるからだ。
それにしても、たった14年前のことなのに、色々と説明しなければならないことが多い。多すぎる。まず吉田編集長は「ホームページ」と書いていたが、正確には違う。「さるさる日記」というレンタル日記サイトに掲載されていた、現在のこの有料配信メールと同タイトルの『勝谷誠彦の××な日々。』である。つまりほとんどの人がその辺の区別がついていなかった。というか当時の日本人は、インターネットで見るものをすべてひっくるめて「ホームページ」と呼んでいたのだ。

ちなみに2004年と言えばソーシャル・ネットワーキング・サービスの「mixi」が始まった年だ(3月3日に公式にオープン)。これで誰でも簡単に、ネット上に写真と文章をアップ出来るようになった。それまでは勝谷が使っていた「さるさる日記」や「日記鯖」など、レンタル日記サイトを使うしかなかった。しかも「さるさる日記」には1000文字以内という文字制限があり、勝谷はギリギリたくさん書きたかったのだろう、『勝谷誠彦の××な日々。』は改行ナシで書かれていて非常に読みにくかった。
とは言えそれ以前はネットに文章をアップしようと思ったら、自分でプログラミング言語などを駆使して自前の「ホームページ」を立ち上げるしか方法はなく、だから2007年に書籍化された『勝谷誠彦の××な日々。』(アスコム)の最初の方を読むと、勝谷は「嬉しくってしかたない」と記し、まさに日々のつれづれを嬉々として書き連ねている。そう考えると、文字を無制限に書けて写真もアップ出来る「mixi」が爆発的に流行したのも納得出来る。
ゆえにこの時期を境にして、決して大げさでなく、プロ・アマ問わず「日本人が文章を書く」ということに関しての文化が大きく転換したのだ。そして、その狭間に勝谷誠彦という人物がいたのは実に象徴的である。ちなみに僕の記憶で言うと、2004年の段階ではまだ「ブログ」という言葉は決して一般的ではなかった。勝谷が「有料配信メール」という言葉と共に、時々「日記」と称したのはそういう経緯からだろう。

さて、吉田編集長のメールの文面から「勝谷誠彦というのは有名人なんだろうな」という気はしたが、正直よくわからなかった。そこで検索してみたのだがなぜかまったくヒットしない。マヌケな話だが、「勝谷政彦」とタイプしていたのだ。これも時代だ。まだファジーな検索が出来なかったのだ。今なら「勝谷政彦」と入れても、Googleはちゃんと「勝谷誠彦」と出してくれる。しかし色々やってみて自分のバカさに気づくと(メールの文面をコピペするというアタマもなかったのだ)、「ああ、あの人だったのか!」とすぐにわかった。
というのも当時僕は朝起きるとテレビ朝日の『やじうまプラス』(平日5:25~8:00)という情報番組を流しながらストレッチをして、その後ジョギングに出かけるという生活をしていた。日替わりでコメンテーターが2人ずつ出る形式で、曜日は忘れたが、特に大谷昭宏さんと勝谷がコンビを組む日が抜群に面白かった。ただし、大谷氏が元読売新聞大阪の記者で黒田清さんの部下だったということは知っていたが、勝谷が何者なのかは実はよくわかっていなかった。

2004年と言えばイラクで3人の若者が誘拐され、自衛隊が撤退要求を受け問題になった年だ。同じテレ朝の『朝まで生テレビ!』に戦場ジャーナリストの橋田信介氏と一緒に出ていて、そのときも圧倒的な存在感を示していた。思えば勝谷が最も元気に、マスコミに露出していた頃だった。「さるさる日記」時代の『勝谷誠彦の××な日々。』が、1日10万アクセスを誇っていたというのも大いに頷ける話だ。
さてそんな「さるさる日記」版『勝谷誠彦の××な日々。』には、確かに僕のことが書いてあった。その少し前に僕はやはりレンタル日記サイト「はてなダイアリー」で『追想特急~lostbound express』というブログを始めていて、そのことを『ビデオ・ザ・ワールド』誌の近況コラムで書いた。勝谷はそれを見て、「東良美季がブログを始めたと知り読んだ」と紹介してくれていた。ミステリ作家・原尞の著作に自分の生活をなぞらえた「報われない人生」というタイトルのコラムだったが、「泣いた」とも書いていた。

何ンでテレビに出てるような有名な人が、オレのことを知ってるんだろうと訝りつつ、アドレスが記されていたので「何はともあれ」とお礼のメールを出した。するとすぐに返事が来た。その日のうち、おそらく2、3時間後だったはずだ。「忙しい人だろうに」と驚いた記憶がある。そこには長年『ビデオ・ザ・ワールド』を愛読しているとのこと、80年代には僕が作ったAV作品も観てくれていたともあった。
後でわかったのだが、1984年頃、僕は先に書いた吉武政宏という男が作っていた『ビリー』(白夜書房)という雑誌のアシスタントをしていた。我々は外部の編集プロダクションの人間だったが、やがて元請けの白夜書房に移籍し、吉武は『ビリー』を続け、僕は新しく『ボディプレス』という雑誌を創刊した。同じ頃同じ会社に、まだ早稲田在学中だった勝谷も、学生ながらフリーライターとして出入りしていたのだ。三尋狂人(みひろ・くると)というペンネームだった。
当時の白夜書房は、末井昭の『写真時代』や吉武の『ビリー』を筆頭に、いわば80年代サブカルチャーの先端を走っていた。才能ある、面白いことを探している若者たちが、光に引き寄せられた蛾のように群れて集まっていた。勝谷もそんな一人だったというわけだ。

ところで、その2004年11月以降、頻繁にメールのやりとりはするようになったが、実際に会ったのは1年以上も経ってからだ。2006年1月のことである。当時の彼がそれだけ多忙だったということだ。場所は勝谷が経営に関わっていた「東京麺通団」の新宿西口店だった。何を話したのかは、今になるともうほとんど覚えていない。ただひとつ、とても印象に残っている言葉がある。それは先に書いた『やじうまプラス』で同じ曜日に出ていた大谷昭宏さんと、やはりテレビでの共演の多い宮崎哲弥さんについてのことだ。
どういう話の流れだったかは忘れたが、勝谷は二人を称して、「彼らはものを書かない。けれど俺は書く人間だ」と言ったのだ。ご存じのように大谷氏は元新聞記者のジャーナリストだし、宮崎氏は評論家だ。お二人とも当然文章は書くし著作も多い。だから「妙なことを言うな」と不思議に思い、記憶に残ったのだと思う。
その意味がわずかながらも理解出来たような気がしたのは2007年、初めての短編小説集『彼岸まで。』(光文社)が出版されたときだ。僕は発売されてすぐ新宿の紀伊國屋書店で買い求め、その旨を2005年より現在まで続く『毎日jogjob日誌』に書いたものの、忙しさにかまけてなかなか読めないでいた。すると勝谷からメールが来た。「読んだのならブログに感想を書いて欲しい。もちろん、批評に値しない作品だと判断されたのならそれでいい」というような内容だった。

よくわからなかった。勝谷誠彦の新刊なら、メジャー週刊誌でも文芸誌でも書評は出るだろう。著名な書評家や作家が書くはずだ。にも関わらず何だってまた無名のライターの、ほとんど誰も読んでいないような(少なくとも当時は)ブログを気にするのだろう? ただ、そこでやっと1年前の冬の発言が、少しだけ腑に落ちる気がした。
「東京麺通団」で「俺は書く人間だ」と言ったのは、「小説を」という意味だったのだ。そう言えば『彼岸まで。』が出たとき勝谷は『××な日々。』に、「今まで何冊も本を出して来たが、こんなに嬉しいのは初めてだ」と、まさに嬉々として書いていた。つまりそれだけ、小説には格段にして特別な想いがあったのだろう。ところが、その後2011年に古巣の文藝春秋より中編集『ディアスポラ』を上梓するも、これは2001年から2002年にかけて書かれたものだ。つまり以降、勝谷の小説はなぜか出版されないで終わる。
ヨロン社長こと高橋茂は、この「小説を書かなかった」もしくは「書けなかった」ことが勝谷を死に向かわせたのではないかと「JBpress」のコラムで推測している。個人的なメールのやりとりで、花房観音も同様な感想を述べていた。おそらくそのことは彼女自身がこの配信メールで書くだろう。
それにしてもわからない。テレビやラジオの出演で多忙を極めていた頃ならまだしも、ここ数年の『勝谷誠彦の××な日々。』には、「ヒマだ」「やることがない」という言葉が溢れていた。また長年の読者の方なら「今年こそ小説を書く!」と、年が変わるごとに決意表明していたのを覚えているはずだ。それは、「もうわかったよ」「去年も聞いたよ」と言いたくなるほどしつこく繰り返された。
ではなぜ書かなかったのだ? そもそもあの豪邸と言って差し支えない軽井沢の家は、そこに籠もって長編小説を執筆するためだった。こう述べると、「ああ、それって──」と連想する人もいるのではないか。そう、スティーヴン・キングの名作、スタンリー・キューブリックの手で映画化もされた『シャイニング』である。

主人公のジャックは小説家志望の教師だが、才能はあるものの日々の生活に追われ執筆がままならない。そこで教職を辞し、ロッキー山上にある、あまりに雪深いので冬の間は閉鎖されるホテルに管理人の職を求める。そこなら時間を気にせず、尚かつ収入の心配も要らず小説に打ち込める。
しかし彼はひとつ、深刻な問題を抱えていた。アルコール依存症である。またその場所「オーバールックホテル」ではかつて血の惨劇があり、今も多数の幽霊が彷徨っている。やがて主人公はその過去に魅了され、人格を崩壊させていくのだが、それが果たして亡霊たちのせいなのか、ジャック自身の狂気なのかが判別出来ないのがこの小説の持つ異様な不気味さであり、スティーヴン・キングの名ストーリーテラーたる所以である。
僕は勝谷から「書いてくれ」と言われた『彼岸まで。』の書評( http://d.hatena.ne.jp/tohramiki/20070518 )で、彼は基本的に長編型の作家であり、<極めて個人的にミーハーで申し訳ないが、世界を股にかけた冒険活劇風長編小説なんてのが読んでみたい。>と記した。わざわざ「個人的にミーハーで」と断りを入れたのは、勝谷が本来は、正統的な純文学志向であることを察していたからだ。
しかし僕が言いたかったのは、勝谷誠彦という人間の生き方が何より「小説」的だったということだ。生い立ちから生き方まですべてがドラマティックであり、周囲は常に魅力的な登場人物で溢れていた。それをただ文字に変えれば、そのまま小説になった。純文学であろうが冒険活劇であろうが同じだったはずだ。死後、マネージャーのT-1くんが勝谷の部屋に入り、膨大な数のノートに書かれた小説のプロットを発見したと、花房観音から聞いた。あとはまさに、「ただ書くだけ」だった。