追悼 勝谷誠彦 :谷本 亙

勝谷誠彦との出会いから
谷本 亙

  • 今も残る桃太郎旗改造のバックから

1枚の薄手の布製バックが此処にある。海のような青の生地に大会キャラクター絵が入っている。「平成23年10月29日」の表示がある。鳥取県で行われた海づくり大会で使った桃太郎旗を再利用したもので、もちろん売り物ではない。

もらったのは鳥取市鹿野地区にある「勝谷地区公民館」。隣にある神社は「加知弥神社」、近くに勝谷トンネルがある。今から6年ほど前の事、勝谷誠彦(以下勝谷と略)、鳥取で酒とともにつながる安藤隆一さん、勝谷のマネージャーの田井地直己さん、そして私の4人は、鹿野から市街地に向けて車を走らせていた。その時、突然一連の「勝谷印」を見つけたのが勝谷。彼は「停めてくれ」と嬉々としながら車を降り、「もしかして、ここが勝谷家のルーツではないか」と云いはじめ、神社にうやうやしく参拝。そして隣の公民館に入り由来を尋ねる。ここが旧勝谷村で読みは「かつたに」、神社も「かちや」だが、本人曰く「元はやはりかつや」だと。判然としないのだが、ただ、テレビで見る有名人がいきなり公民館に現れたため、何か土産でもと、私も一緒にもらったのがこのバッグ。前の晩、勝谷、安藤、谷本の3人が鹿野で合流、昔ばなしに花が咲いた。2回目の全国酒蔵トラストサミット時(1996年・平成8年)の鳥取県智頭町以来15年ぶりである。

 

  • 勝谷誠彦が酒の本を造ると金沢にやってきた

私と勝谷が会ったのは、今から23年前になる。彼が文芸春秋の文庫部次長、本人曰く「閑職です」の時期である。日本酒の本でも造りたいと思い付き、そこから経緯は不明だが、地酒振興に力を入れている金沢市内の酒販店「おさけやさん西本」、今は亡き西本久孝氏と接点ができたらしく。さらに最初に酒蔵トラストを実施した隣の県、金沢から40分ほどの成政酒造(富山県南砺市福光)に取材先に定め、成政に行く前日、西本さん、成政酒造共に活動を共にしていた私に会いに来たのだ。集合場所である居酒屋で初見の勝谷はせわしなく動き回りカメラを回し、取材の段取りを語り、ライターの藤原理加さんに指示を出していた。

私は酒蔵トラストの主旨や提唱者である寺島圭吾さんを訪ねて欲しいことを伝えながら、日本酒について二人に語った。帰り際、「明日時間を取って欲しい、藤原がインタビューする」と申し入れてきた。半信半疑のまま次の日思いを語った。それが原稿として起こされ、『日本酒の愉しみ』文春文庫の巻頭の論文「我々は今人類最高の酒を飲んでいる」となった。帯のコピーも「人類最高の酒〇〇」が使われている。

勝谷が編集した本として、文芸春秋文庫『日本酒の愉しみ』1996年(平成8年)1月初版が出た。この本は売れに売れた。私が手持ちのものは3版で、勝谷は「確か3万4万は刷っているぞう、こんなに売れるなら印税にしておけばよかった」と後日云う。私も「世界で「2番目」に売れた日本酒の本だと」勝手に言い続けた。(※その後連載は『にっぽん蔵元名人記』講談社から2000年(平成12年)に単行本として刊行。さらに『にっぽん蔵々紀行』上下巻 光文社から文庫として刊行)

後年の勝谷の書いた『獺祭』に私や成政酒造の話が出て来る理由はここにある。実際成政酒造とは現在の社長である山田喜代美さん、母である故山田和子社長(当時)、杜氏の松谷政治さんを始め、トラスト世話人会の有志と仲良くなり、酒蔵トラストの記念の年や富山、金沢に講演に来た時にかならず酒造に訪ねている。勝谷は他にも酒蔵との付き合いは多数あるが、最も長く付き合っており、講演ネタでよく使っていた。

 

  • 蔵々紀行から蔵元名人記へ

文庫の出版から数か月して、私に電話があった。その頃勝谷は世田谷の下馬にいた時で、電話口に出た奥さんの声は今も残っている。話は文春を退社しフリーで仕事をするという。やれる仕事はいくつかあるが、せっかく日本酒の本も出したので、「小説宝石に酒とか酒蔵と食い物とか混ぜたような連載を書いてみたい、ついては、どの酒蔵がいいのか私が知っているところを紹介してもらえないか」というのである。たまたま日本の酒蔵のビジョンに関わり取材先、講演先での酒蔵を知っていたのと、酒蔵トラストのネットワークもあった。

連載第1回目は、私が案内する形で能登半島の酒蔵に行こうということになった。小松空港に迎えに行き、当時の私の軽四に藤原理加さんを助手席、勝谷を後部に「積んで」能登に向かった。1回目の人や店の紹介のパターンが以降の連載モデルとなった。初回の紀行を再読して、年月を経ても昨日のように色褪せず、人とその話の描写のうまさは天才的である。連載2回目が同じく酒蔵トラストを始めた縁で付き合いがあり、安藤隆一さんとその仲間のいる鳥取を紹介。鳥取では開催された酒蔵トラストサミットでも勝谷を紹介、その後は酒造、麺、鉄道、カニなどテーマがあれば鳥取を取り上げて取材に来てくれる。これは北陸でも同様でこのテーマでどこかないかと私に電話が掛かってきた。

鳥取ではその後、総務省から鳥取県に出向されていた佐藤健さん、そして木村敬さんに引き継がれ勝谷は様々に活用されていく。さらには安藤氏の長男隆雄さんの結婚式にも勝谷は招待され、スピーチもしている。

山口県では獺祭の櫻井博志さんとの出会いがあり、その後の後年の関わりは知っている人も多い。山形県酒田では初孫(東北銘醸)と秘蔵初孫を出しているレストラン「ル・ポットフー」に来訪。私もその時酒田まで追いかけて共にしている。ル・ポットフーのHPには、来訪した食通の有名人として勝谷誠彦の名前が載っていた。

その頃まで勝谷はそれほど有名ではなく、その後のような忙しさはなかった。「暇ならと」、私が誘って富山県内で講演会誘い私とトークライブを行った。氷見も良く来ていたので、市役所にいた薮田栄治さん(現在富山県議)とも懇意になり、魚には詳しくなった。富山県の観光塾で呼んだ時も、担当者中陳岩夫さんとともに、上司を口説き落として講師にした。勝谷のことは中陳さんは今でも自慢げに懐かしむ。この塾では一連の京都の本で有名な、歯科医(当時)の柏井壽さんも呼んだ。手にした柏井さんの処女作本を沈読していたことによる。ともかく最初の本との出会いは大事である。

 

  • 地酒列車の取材とその後

蔵々紀行での勝谷の頂点は「地酒列車」の取材と参加であろう。私と安藤さんとが酒を飲みつつ構想したのが1994年(平成6年)である。そこから1回目の地酒列車が実施されたのは1997年(平成9年)である。ちょうど同じ時期に鳥取県の夢みなと博覧会があり、市民発案によるイベントの助成が受けられることで実現した。もちろん決まってから関係者によるボランティアによって1年以上かけて準備した。私が実行委員長、安藤さんが副委員長として、鳥取県はじめ関係県のスタッフが活躍した。秋田から鳥取間の各県の県庁事務局と酒蔵をつなぐ一大イベント列車であり、その後の地酒列車の名称が各地で使われるがその根源である。秋田では勝谷はシンポジウムのパネラーと取材で参加、そして蔵々紀行に掲載された。

今読み返しても見事な書きっぷりである。そこでは、成政トラスト世話人会の常本健治さん、勝谷評では私と「お神酒徳利だと」云わしめた金沢の福光屋の藤永治夫さんがいた。彼らは若くして亡くなってしまう。亡くなった後、勝谷はきちんと彼らの仏前に行き頭を下げる。そして藤永氏から紹介され、日本酒の情報提供と出版を行うフルネットの中野繁さん。蔵々紀行の下巻収録の酒蔵は中野さんの紹介か縁のあるところが多い。その他様々な人が地酒列車に集った。ちなみに列車に搭載された日本酒はすべて縁のある酒蔵からの寄付である100社120銘柄。さらに忘れもしない、秋田駅での荷物搬入のために酒蔵を倉庫代わりに貸してもらった秋田晴さん。酒田の駅頭で舞妓さんといも煮が弁当で乗って仰天した初孫さんなど何か酒蔵の人たちは私たちに何かを求めていたのだろうなと。このような感謝と感激の渦を勝谷は見事に描いてくれた。

それ以降勝谷は地酒列車が気に入ったのかたびたび取材や関係者として参加している。地酒列車はその後にさらに1998年(平成10年)の金沢からの地酒列車と酒づくりまちづくりサミットにもパネラーとして参加、模様はdancyu紙面にも勝谷を書いている。それから様々な食のルポを出していくようになった。地元の兵庫ということにもあり、2000年(平成12年)全国酒づくりまちづくりサミットイン但馬と大阪からのひょうご地酒紀行に、青森からと萩からの列車を福井駅でドッキングし大野駅でまで走らせた列車にも勝谷は乗っている。この列車の代表には青森出身のライターの山内史子さんが務め、彼女も徐々に酒や食の仕事が増えていく。また、2004年(平成16年)には上野発能登半島行の地酒列車開催、これに半島各地で開催する食談と併せて行われた。勝谷は盟友であるカメラマンの宮島茂樹さんと現在は富来町(現在志賀町)の会場でトークを行った。この時に行った11会場の食談にはdancyu編集部で私も勝谷もお世話になりっぱなしの里見美香さん、雑誌「旅」の編集部にいた入江一也さん、京都の高田公理先生など、予算に限りがあるので私の知人かその知り合いを強引に頼んで来てもらった。

2001年(平成13年)発行で私が監修をしていた『雪国の酒蔵』能登印刷出版部 にも山内史子さんと勝谷と私が鼎談で出てくれている。最後のところで「日本酒には雪がいる」と気を使ってくれている。そういう男なのだ。

蔵々紀行の取材や酒蔵サミット、地酒列車を通じて地域と人を知り、どんどん人脈と関わる分野を広げていった。彼の潜在的な能力はもちろんあるが、後日有名になっていく契機の一つはそこにある。勝谷は義理堅くつきあってくれた。そして、出会った時と同じようにせわしなく駆け抜けていった。そこに臨場感あふれる貴重な記録が残っている。私たちとの付き合いで感じるのは、人とのコミュニケーションメディアとして酒を飲んではいたが、酒に飲まれていたことはないと思いたい。