追悼 勝谷誠彦 :木村 敬

(歴史を知った上で)でも、今を生きよ!(Seize the day)
内閣府地方創生推進事務局 木村 敬

勝谷さんと初めて会ったのは、忘れもしない2003年のいつだったか、、、忘れとるやないかい!というツッコミができる方はおよそどんな勝谷ファンの出自なのかわかるってものだが、私なりの勝谷さんへの思いを綴るに、勝谷さんと出会う前の話、言うならばB.C.(Before Christ)ならぬ、Before KATSUYA=B.K.にお付き合い頂きたい。

ここに一冊の雑誌がある。プレジデント社dancyu1997年4月号。メイン特集は「オムライスの純情」。サブの特集が「うどんの覇気」。この頃のdancyuはこんな特集のタイトルがともかく楽しかった時代だった。このサブ特集「うどんの覇気」は、これまた初期のdancyuらしく巣鴨のカレーうどんの名店「古奈屋」の主人が教えるうどんの作り方(そもそもdancyuは「“男”子“厨”房に入らず」を打破する趣旨の雑誌名ゆえ、初期は料理を作るコーナーが多かった)や、うどん好き必見の店案内~東京・名古屋・京都・大阪、などのdancyuらしい企画を差し置いて、特集の冒頭企画は「讃岐“うどんワールド”をどっぷり体験」。著者は、勝谷誠彦、その人だった。

ここで、さらに個人的思い出話で時間を戻させてもらう。当然、勝谷さんは出て来ない。私の大学での親友にS君という香川の名門、高松高校出身の奴がいた。1994年に入学して知り合った二人は、ラーメンマニアで東池袋大勝軒やなんでんかんでんの行列によく一緒に並んだ。並んでいる間、S君が「おもろい本があるで」と教えてくれたのが、後にさぬきうどんブームの火付け役となった「恐るべきさぬきうどん」(ホットカプセル社刊)だった。
勝谷さんの日記読者ならよく登場するのでご存じの田尾和俊さん(現:四国学院大学教授)がかつて編集長をしておられた「タウン情報かがわ」の人気連載「ゲリラうどん通ごっこ軍団」の単行本である。この本の凄さを語ればそれで原稿が終わってしまうのでこの場では控えるが、私はこの本でさぬきうどんのディープな世界に魅惑され、S君が香川に帰郷する盆暮れに何故か東京・恵比寿生まれの私も同行して、香川で数日間、うどん屋探しの旅に耽溺することとなった。
このように私が香川へのうどん巡礼の旅を3~4回終えた1997年3月某日、先に述べたdancyu1997年4月号、勝谷誠彦「讃岐“うどんワールド”をどっぷり体験」と私は出会う。忘れもしない(今度は本当に)、大学の学期末試験が終わった後の母校の生協書籍部であった。
dancyuがついにさぬきうどんの特集かいな、と小躍りして雑誌を立ち読みした私は、勝谷さんの筆致に度肝を抜かされた。最後の〆が飛び抜けて凄いので、再録させてもらいたい。さぬきうどんの至高の名店と私も思う(S君と毎回行っていた)「山越」という今や定番の「釜玉うどん」発祥の地で勝谷さんが最後に釜玉を食べての言葉。

「旨い。卵が加わることによって、味にも食感にも、コクが出る。大事な麺が、もう少し舌と遊んでくれているような感じ。和風カルボナーラだ。これで卵代30円加えて、110円ですよ!いや、私は真剣に讃岐に引っ越してこようかと思った。三食このうどんを食べていれば食費一日330円。細々とどこかの連載だけで食っていけるのではないか。麺哲学だけではなく、人生哲学まで、私はあやうく揺らぎそうになったのであった。恐るべし!讃岐うどん。」

最後の〆の決め台詞は「恐るべきさぬきうどん」から取ったなぁとニヤニヤしつつも、私も至高の一品と思っていた山越の釜玉を「和風カルボナーラ」と称したのには巧い表現だと感心した。そしてそれ以上に、「大事な麺が、もう少し舌と遊んでくれているような感じ」という艶めかしい表現が心に強く残った。
この他にもこの号で勝谷さんはうどんを評する際に、麺のコシと舌や歯の動き、麺の滑らかさと唇の関係なども上手に表現している。接吻や口腔づかいを想起させる妖艶な表現であった。そう書いた上で、最後は「三食このうどんを食べていれば食費一日330円。細々とどこかの連載だけで食っていける」「讃岐に引っ越したい」という貧乏臭いオチに話を持って行く、その落差にさらに私は酔いしれた。
読後、再度記事の冒頭を見た。著者は「紀行家・勝谷誠彦」とあった。(当時の肩書きはどういうわけか「紀行家」であった)
私は自分のカルト的趣味と思っていた「さぬきうどん」がdancyu誌で世に日の目を見ただけでなく、この勝谷某によって見事に表現されていたのに小躍りし、ちょうどS君が香川に帰郷すると聞き、それに便乗して私はまたまた香川への聖地巡礼に向かっていた。そして、大学3年の春休みを勉強でなくうどんに耽溺した男には罰が下り、私はその年の国家公務員試験に失敗することになる(うどんのせいではないのだが)。

その後、私は翌々年の1999年4月に旧自治省(現在の総務省)に入省する。初任地は香川県との希望が通らなかったものの、隣県の岡山県に赴任する。まだ勝谷さんは出て来ない。
岡山県在職中、TBS系列の地元放送局・山陽放送関係者と知遇を得て、ある番組の取材に同行したことがあった。2000年の暮れの頃である。そこで私は岡山と香川が同一放送局であることから取材先であった香川県観音寺の「パロット」に行き、パロマスと出会った。本人は覚えていないと思うが、私には森さん(パロマス)の顔以上に、店の何とも言えない場末な佇まいを今でも鮮明に思い出す。勝谷さんより前に私はパロマスと会っていた。そうしてその後、私は香川とさらに深く付き合うこととなり、運命の勝谷さんとの出会いに至る(ようやくかい!)。

あれは忘れもしない2003年のいつだったか、忘れとるやないかい、いや、忘れてません。夏のある日、私の実家に一通の案内状が来た。「本物は、あとからやってくる」。東京麺通団開店の案内状だった。2003年9月22日の内覧会に呼んで頂いた。森さんが私の名刺を元に数少ない東京人脈なら枯れ木も山の賑わいと送ってきてくれたのだと思われる(真相は不明)
そして、ついにそこで私は勝谷誠彦さんと出会うことと相成った。その日はともかく混んでいて、残念ながら詳細な内覧会の様子は覚えていない。でも、鮮明に覚えていることがある。私は勝谷さんに対し、当然にdancyu1997年4月号の記事が如何に鮮烈だったかを伝えたところ、勝谷さんから、「過去の連載へのお前の感傷なんかどうでもいいんだよ。今が大事。今、お前は霞ヶ関で何をしてるんだよ」と大説教を捲し立てられたのである。それが勝谷さんとの最初の出会いでした。ちなみに、その日の様子は、私のうどんの師匠でもある蓮見壽さんが「All About」で記事に残してくれているので、是非ご覧あれ。
https://allabout.co.jp/gm/gc/216966

そして翌2004年4月、私は鳥取県に赴任することとなった。私は転勤にあたってこれまで名刺交換させて頂いた方々にご挨拶状ならぬ転勤メールを送る。面倒くさいのでBCCで一斉に何百人に送る。今度は鳥取に行きますよと。そうしたら、勝谷さんから、返事が来た。たった1回しか会ったことない若造に。その文面にはこう書いてあった。
「鳥取は素晴らしい地だよ。まずは安藤と澤田に会え」

ドラクエの指令かい、と思いながら、でも私はそんな勝谷さんの心配りに小躍りした。勝谷さんの著書を見るに安藤なる人は県庁職員と思われたので、私は鳥取県庁着任早々に県庁の安藤さんを探した。そして、相談した時の部下の表情で私は悟った。安藤さんは相当変わった人のようだと。ご本人の名誉のために申し添えるが、安藤とは日記にもよく出てきた安藤隆一さんという元鳥取県職員で、地域づくりの達人的変人である(褒めてないって)。澤田というのも澤田廉路さんという建築技師の県職員の方である。どちらも勝谷さんとは長年の盟友であった(この点は、鳥取と勝谷さんを引き合わせた谷本亙さんの寄稿に詳しい)。
お二人に会いに行くと勝谷さんのことを自分の兄弟のように、熱く語ってくれた。まさに、奇人、変人。勝谷さんのことなら、仕事もそっちのけである。正直、それがこれ以降、今に続く、私の勝谷さんに対する姿勢にも繋がるものがある。「まずは今。そっちのけで」。
翌年、2005年、私は鳥取県観光課長になった。安藤隆一さんらとそれまで1年間語らってきた、大手広告代理店に依存した観光行政を改め、内発的経済発展に資する地域魅力向上を軸にしたPR戦術にしようと、勝谷さんをここで使いに使った。日テレの「情報ツウ」(「スッキリ」の前身)始め、勝谷さんの番組や連載で鳥取ロケを何度も敢行してくれた。既存の旅館組合のボスでない新進気鋭の宿や新しい観光や農業、飲食の担い手にスポットをあててくれた。このことは今でも私の胸だけでなく、当時の鳥取県の観光行政に携わった皆が感謝している。

その後、勝谷さんとの縁はますます深まっていくのだが、その中で、私なりの勝谷誠彦との付き合い方というものを体得していった。それは、勝谷さんの口癖である「ただ生きるな、善く生きよ」であるのだが、その上で、勝谷さんに対して「今、自分は何をしているのか」を語れる自分で在り続けたい、ということである。
はっきり言えば、勝谷さんは自分との過去の思い出はどうでも良かった。思い出話をだらだら語る酒席は大嫌いだった。それより「お前は何しているんだよ」といつも突っ込んできた。そう、私が2003年に初めて勝谷さんと会ったときに捲し立てられた「今が大事。今、お前は霞ヶ関で何をしてるんだよ」と一貫して変わらないのであった。

今、お前が何をしている。勝谷さんが私に求めていたのは常にそれだった。2011年、足かけ8年間に及んだ鳥取県勤務を終えて総務省に戻った私が取り組んだのは、東日本大震災を受けた被災地での延期された地方選挙の再実施問題だった。福島県の原発立地自治体を中心に東北の被災地からは、これまでの選挙実務では想定し得ない域外に避難する有権者が大勢いた。彼らにどう選挙情報を届けるか、そうした課題に立ち向かうべく、記者クラブの論理を越えて、既存の大手メディアでないネットメディアにも協力を仰いだ。
そこで、「ザ・選挙」の高橋茂(ヨロン)さんなどネットメディアの方々をも、総務省での岩手県大槌町の選挙実施記者会見にお呼びしたのである。当時の私が「今、お前が出来ること」を果たした。私はこの人が勝谷さんの日記配信元だとわかっていたが、知らんぷりして会見終了後にこっそり「日記読んでます」とヨロンさんに伝えた。それがヨロンさんと最初にお会いした出来事だし、そのことを勝谷さんに伝えたときの彼の喜びようは今も忘れられない。「高橋ヨロンに着目したお前は立派に育っているゾ」と。

勝谷さんは本当に面倒臭い人だった。勿論、私なんぞヨロンさんやT-1マネージャーの何百分の一しか迷惑はかけられていない。でも、勝谷さんという人は、常に、今、この瞬間の、自分と私の関係を問うてくる人であったし、それは私を鍛えてくれた。色んな人の世話になりながら生きてきたのが勝谷さんだが、迷惑な話だが、ほんと、過去はどうでもいい人だった。勿論、中国の故事ではないが、井戸を掘った人が大事なのは勝谷さんも分かっていたと思う。でも、勝谷さんはそれ以上に、井戸を掘ったら、灌漑を作って田畑を潤し、水道を作って人々の暮らしを豊かにする、そんな次の絵姿を文字通り次から次に描ける人であった。
決して、勝谷さんは刹那的に生きた人ではない。むしろ、過去に耽溺する右寄りも左寄りも心の底から叱り飛ばし、「ただ生きるな、善く生きよ」、そして、歴史を知った上で、でも、「今を生きよ!」と、我々を鼓舞してくれる人であったと私は確信している。

勝谷さん、あなたは勝手な人だったよ。でも、天国ののぞき穴からイヒヒと現世をのぞき見ているあなたに恥ずかしくないように、私は生きていくよ。今を生きよ!(Seize the day)