畏友よ! 南の島へ!ーー
日垣 隆(文筆業32年目)
勝谷誠彦さんとマニラで初めて出会い、阪神淡路大震災や東北大震災の現地でも連絡を取り続け、たとえばイラク戦争ではスレ違い、番組で何度かご一緒し、米国タイムズや仏国ル モンドなどの全面意見広告により北朝鮮拉致のファクトをまず世界に知ってもらおうと有田芳生さんの呼びかけで集まった”左右中”「7人の会」では、たびたび顔を合わせた。
お酒を呑んだのは数えるほどしかない。有料メルマガ(メール)というものーー簡単にいえば自分のメディアを持つことをしないと、いま(90年代、せいぜい00年代まで)は威勢のいい作家やフリーライターやカメラマンたちは食えなくなる、と数百人に言い続けて、もうやぁめたっ、と諦める直前に勝っちゃんから「会おうよ」と連絡があった。
もちろん定刻に行ったのだが(偲ぶ会が行なわれた所ね)、彼はもう先に来ており、私のために(安いw)食いものをいろいろ取って運んでくれる。店内には20人ほどお客さんがいた。みな気づいている。勝っちゃんは、気にもかけないが、気づくよね。声もデカいし。
私はそのお店に入ると同時に、初めてピッチ(携帯電話みたいな)をタクシーに置き忘れたことを告げたところ、彼はまだピッチも携帯電話も持っていなかったので、お店の黒電話(!)を取り、「日垣さ~ん、タクシーでもらったレシートを持ってきてよぉ」といいながら、1分たらずでタクシーの運転手さんがお店まで届けてくれた(もちろんタクシーの正規料金を払う)ことのほうが、有料メール「勝谷誠彦の××な日々。」誕生秘話(笑)より私には印象深かった。やるねぇ。
こんなにゆっくり、たっぷりと話すのは、もしかして初めてかも、と思いながら、彼の正統な義が眩しかった。単行本は処女作を名前も確認せず読み始めてしまい、「なんやこいつ?」と驚き笑って、「ああ、あのときの文春変態社員かあ」とすぐに合点がゆき、以来すべて読んできたように思う。新しく始まった「ーーの日々。」を読むなかで、彼の義を知る日々多々あり。
彼は遅刻をしない。ましてや「ものを頼む」立場をものすごく自然に、そして毅然と示す。
彼は締め切りに遅れたことがないという話は、ここ(!)では常識なはずだけれども、メディア露出を絶とうと決意し16の連載やレギュラーを一斉に(3カ月の猶予をいただいて)総て止め、もうアウトだと悟って命を優先した時期が私にはあった。言論の自由は、日本にあまりない。ガンサの遺言に、こういうくだりがあった。「恒産なくば、書き手に真の自由なし」と。
勝谷誠彦さんは、その深淵を熟知していた稀有な書き手だった。
これより5年ほど前のこと、このふたりに和田秀樹さんが加わった場がある。テーブルを挟んで3人が座ったわけだ。灘の同級生であるのは知っていた。
わざわざ聞かなくても、どちらが勉強優秀で、どちらがそうでなかったかは分かる。いじめっ子は誰でしょう、もクイズにはなりそうもない。
が、何度も会ってきて、あんなに(俺の前では)義の漢であり続けてきた勝谷誠彦が、いじいじイジイジと天下の和田秀樹をいじめ始めたのだ。わはは(勝谷流)。歴史的名場面に立ち会えた。勝っちゃんの理由なく誇った顔と、いつものキレも精気もゼロになり真剣に怯えている和田ちん。
あんなことも、いまでは忘れがたしーー。
勝谷さんは締め切りを守る、しかも、かなりの率で先渡しをする。皆さん、ご存知ですよね。
不肖私は32年間、100万部雑誌であった「文藝春秋」の連載やらを含めて別に気取ることもない代わりに、総ての原稿の締め切り時間から、やっと書き始める。えらい違いだ。性格だよね、きっと。印刷に間に合えば良いわけだし。
私は興味さえ持てば何でも書きたくなった。実際、書いて、たいていは本になっている。が、風俗だけは避けた。彼がいる。
勝谷さんとの交際が深まったのは、私の初めての入院時(2015年11月~16年5月)である。交際、というより、真剣に励まし続けてくれた。
結局、私は生き延びる。死のうとしていることも彼は察知してくれていた。それを「生きよう」ではなく、美しい文章の、巧みなメッセージを状況に合わせて、寄せてくれる。
私が退院を控えて、完全なる身障者になったことを、本人(俺ね)以上に知っていた。
昨年の兵庫知事選挙(かつて長野県知事選挙でも、かなり頻繁に顔を合わせて田中康夫さんとも密談をした)に、身障者となった私は3度、通って何もできなかった。3度とも、彼は泣いた。私もーー。
何の涙だったのだろう。悲しんだのではなく、お互いを讃えたのだと思う。
選挙が終わって、高橋ヨロンさんとT-1さんはすぐ、彼をタイに送り出し、後片づけなどだけでなく(これも大変!)、彼の依存症や食事やメンタルの心配をされていた。
選挙から、およそ1年後。
今度は私が慶應病院に駆けつけることになる。私は意識不明の勝谷誠彦さんを見て、もう生きられないな、と強く感じた。
《勝谷さま
入院した数日後、慶應病院にお見舞いに行って話しかけ、手を握った私を覚えていますか?
昨日の高橋さんの代理メールでは、車椅子にも乗れた、とありました。
僕が退院してリハビリも一段落したら「一緒に南の島に行こう!」と誘ってくれましたが、兵庫県知事選とかあって。あのとき僕は何度も泣いてしまいました。でも勝っちゃんが意識不明になった先日は、泣かなかったーー。
(中略)
20年以上前の映画「リービング ラスベガス」観てる?
娼婦の恋人が、アルコール依存症のコッポラ改めニコラス・ケイジに、誕生日プレゼントに送ったものが携帯酒便!
すごいよね。
(中略)
また、話に行きます。
日垣 隆》
(2018年9月9日)
《畏友へ
ありがとう。
何しろ「天下の」貴兄と私です。
医者を驚かすのが楽しくて。
日垣さんのさまざまな描写を思い出します。私の場合は、憎まれ口が多い。
「新しい薬をためしてみたいのですが」
「治験? 高いんでしょ」
「いえ、大学の研究費から出します」。
ビミョー(笑)。
軽井沢はいい季節ですよ。
ときどき、えっというほど寒くなるので、ダウンつらい。持って行かれればいいかも。
もっと早くわかっていれば、拙宅の鍵をお渡ししたのにーーって、そんな対応ができる状況では、なかったのです。
ごめん。
人事不省だったもんなあ。
本当に、ごめんね。》(9月10日)
《勝谷さんへ
本日、退院とのこと。
お見舞いに行ったときは意識もほとんどなく、この日がこんなに早く来るとはーー。
おめでとう!
ところで、南の島へ行く話、どうしましょう。》
《ふたりとも、身障者になっちゃったね。
国家に何割かはもっていかれたかと思うと、戦前の父祖のことを考えると幸せだ。
何年とかいわずに、ずっと旅したいけれども、お互いに楽なところにいこう。
それこそ、フツーのひとにはベタだけど、南洋諸島なんていかが。
ほんどの日本人が、先のいくさを忘れている場所に、私と貴兄がいるというのは、楽しいよ。
年内に行こう!》(10月10日)
これが最期のメッセージになったーー。
勝谷さんとは出逢ってから亡くなるまで、良き友人だった。その未明、共通の友人である高橋ヨロンさんから「今、勝谷さんが亡くなりました。1時48分でした。取り急ぎ」との連絡あり。
日垣:「高橋さん。本当にお疲れ様でした。一度死にかけて退院までこぎつけての回復、とても嬉しかったです。勝っちゃん、満足されていたと信じます」
高橋さん:「最期に日垣さんと会っていただけて本当に良かったです」
日垣:「あのあと、何度か私信をやりとりをし、高橋さんの代理発行に混じって、かなりまともな勝っちゃんの文章が入るときもありーー。結果的に、あまり苦しまずに、天に召されたのかなって。俺たちより、お酒を選んじゃったかなぁ。久しぶりに泣いて、まだ涙が止まりません」
高橋さん:「日垣さん、泣かないでください。こっちまでつられてしまう。って、さっきから泣きながらメール打っています」
日垣:「いっぱい泣いちゃってください」
高橋さん:「そうします! そうですよね!」
10代から、家族と、かなり親しい同業者や友人を50人は喪ってきた。10年以上も、取材相手として深く関わった人たちなら、もう1桁は上回る。私の40代のときが、とりわけ多い。戦死が目立つ。フツーの環境にはいなかったのだなあ。
あまりにも多いため、井上ひさしさんあたりから葬儀やお別れする会には出席しなくなっている。エポックはもっと前、ルワンダ大虐殺時に生死を分けた共同通信の沼沢均さんの葬儀ーーナイロビからゴマに向かう小さなチャーター機に、私だけ予定どおりには乗ることがかなわず、乗った6人全員が戦死し、後日、沼沢さんの2,500人もの大葬儀ーーで奥様とお子さん2人の姿を間近に見て、涙が止めどなく溢れでた。あの瞬間まで、我々が行かねば誰が行くのかと、だから当然の使命だ、セイギのためには仕方がないと信じていたのに、俺たちは間違っていたのではないか、と急に思考が移ろいだ。
私のルワンダ大虐殺取材を必死で止めたのは、家族だった。何につけ反対したことなど一度もなかったのに、アオクサい私には理解不能だった。沼沢さんのご家族が遺族となって、焼香のあと目の前に立ち尽くしている4人の姿を目にして、私は身動きがとれなくなった。
つらすぎた。悲しんでも、生き返るわけでもないーー。
葬儀やお別れの会は、たぶん、生き残った者たちのためにある。
私は、オカルトな幻想をもってはいないので、もちろんその死はシカと受け止め、わざわざ落ち込むことはしないようになった。
10代から20代のときの祖父母などの葬儀は、いや、その前の危篤の後、みな老衰だったから、穏やかなお別れであった。15歳時での、13歳の弟の急死(少年法によって殺人魔は逮捕すらされなかった)だけは、私に異様に大きな変化をもたらしている。何かが壊れたような気がしてならない。何度も書いてしまっていることだ。他人には伝わらない。伝えられないのかもしれない。それで良いのだと思う。子を失った父母さえ、兄弟を失った私の立場を理解できないだろうと今でも感じる。その逆もまたーー。
勝っちゃんは、俺に惚れているのではないか、と思ったのは数度だけ(笑)ある。一緒に居合わせた美女には結構キツイのに、おいらにはやたらと優しい。西原理恵子さんが「ホモかっちゃん」説を漫画のなかで流し、これで「あ、ネタか」と納得。
先ほど触れたように、北朝鮮の拉致家族問題につき日本の枠組みを超えて、まずNYタイムスと仏ル モンドに何度か全面広告を展開する「7人の会」でもご一緒し、田中康夫知事誕生では私が端緒を、勝谷さんや高橋さんや(平安堂会長の)平野稔さんたちが盛り上げてゆく。
あまり知られていないかもだが、勝谷さんが吉本興業(文化人系ね)に属したとき、これはもっとずっと知られていないことに、私も強く誘われた経緯がある。
私は”滅びゆくマスコミ”と距離を置き始め、独自のスタイルに移行していた時期なので、かたくお断りした。
どうでもいい話だね。
勝谷さんとも良き友であり続けたのは、彼と私の思考や思想や見解には恐ろしく違和があり、ソコがお互い尊重しあえたからだと思う。
喧嘩をしたこともない。馬鹿野郎といったことはある。アホか、くらいもいったな。根本的なほど、彼とはバックボーンも信条も違った。
とても大切なのは、似たもの同士でツルむことに意義を全く感じなかったことかな。多くの違いを尊重でき、違いをこそ楽しめる仲であり続けられたのだと改めて思う。
勝谷誠彦さん、安らかにーー。
南洋諸島にて記す
■メルマガ「ガッキィファイター」2018年11月28日号を基に加筆いたしました。
■日垣 隆 ひがき たかし
作家、ギャンブラー、旅人、有料メルマガ創始者、2018年11月末日に愛する読者3万人突破、現在セブ島に長期滞在中。