勝谷、早過ぎるよ!
花田紀凱(『月刊Hanada』編集長)

11月29日、勝谷誠彦の葬儀を了えたあと、尼崎の駅のコーヒーショップで、ぼく、西川清史(前文藝春秋副社長)、柳澤健(ノンフィクション作家)の三人で、しばらくしんみりと話をした。
三人とも口数は少なく、無性に寂しかった。あの勝谷誠彦が、死んでしまったなんて……。

1985年、文藝春秋が隔週刊の写真誌、ピープルマガジン『Emma』を創刊した。が、時は『フォーカス』 『フライデー』全盛時代、両誌に引っ張られ、過激な内容になって二年で廃刊。文藝春秋にとっては鬼っ子的存在で、今や社員からも忘れられている。
ぼくが特集班のデスクで、その下に石山伊佐夫(のち桐蔭大学教授)、勝谷。西川が表紙などビジュアル担当で、その下に柳澤。当たり前だが、皆、若かった。
創刊号の発売日、その朝はちょうど二号目の校了日に当たり、全員徹夜していた。
「よし、売れ行きをチェックしに行くぞ」
西川や勝谷とJRの有楽町駅までタクシーを飛ばし、キヨスクの売店を見て回った。どの店でもよく売れていて、喜んだわれわれはそのまま築地の場外へ行って祝杯を挙げたのだった。
『Emma』では本当にいろんなことがあった。
あの年は、ことのほか事件の多い年だった。日航ジャンボ機御巣鷹山で墜落、疑惑の銃弾の三浦和義逮捕、女優夏目雅子死去、阪神タイガース21年ぶりに優勝、そして翌年四月、岡田有希子飛び降り自殺……。
その度に『Emma』は過激な写真を掲載、社内外で物議をかもし、ヒンシュクを買った。隔週誌だから過激にしなければ『フォーカス』や『フライデー』に対抗できなかった。
社内では冷たい目で見られていたかもしれないが、しかし編集部は活気に溢れ、エネルギーに満ち満ちていた(ぼくの思い込みかもしれない)。
あの激動の日々から、もう三十年以上の月日が過ぎたとはとても信じられない。
その後、紆余曲折あって、ぼくと勝谷、柳澤は社を辞め、それぞれの道を歩んだ。西川だけは社に残り、順調に出世し、副社長まで務めて2018年に退社した。
それぞれが忙しい身で、しょっちゅう会うというわけにはいかなかったけれど、それでも何となくお互いの動静を気にはしていた。

■小説の続きを書け!

勝谷にはぼくが編集していた『WiLL』、そして今の『Hanada』に十数年にわたって朝日新聞批判のコラム「築地をどり」を連載してもらった。文体に凝りに凝り、勝谷以外、誰も書けない名コラムだった。
いろいろ悩みも多かったのであろう、二年ほど前、勝谷は鬱状態になり、一時期コラムを休んだ。
その後復活したが、往年の冴えはみられなかった。けれど、ぼくは勝谷にそれを指摘するのが忍びなく、そのまま掲載し続けた。あの勝谷のことだから、いつかまた、鋭さを取り戻すだろうと信じていた。
勝谷は小説を書くべきだったのだ。
2011年に刊行した『ディアスポラ』は祖国を失った日本人が、かつてのユダヤ人のように世界を放浪するという壮大な構想の物語で、傑作といっていい。
「あの『ディアスポラ』の続きを書いて、完成させろ」
勝谷には会う度にそう言っていたのだが、とうとう書かないまま、勝谷は逝ってしまった。

棺の中の勝谷の顔は薄化粧をほどこし、穏やかであった。
あのイタズラッ子のような勝谷の笑顔にもう会えないと思うと限りなく寂しい。
このところ蒲団に入って、枕元の電気を消すと、勝谷のことを考えてしまう。楽しかった思い出、バカなことをやっていた日々ばかり思い出す。
バカヤロー、勝谷、早過ぎるよ!