おはようございます。ヨロンです。
今、長野県東御市(とうみし)の実家で書いています。珍しく快晴ですが、朝の冷え込みは厳しくなってきていて、ストーブをつけています。
東御市は、小県郡(ちいさがたぐん)東部町と北御牧村(きたみまきむら)が合併してできた小さな市で、典型的な田舎町です。エッセイストの玉村豊男さんがワイナリーを経営していることで、たまにメディアに載るくらいですが、なだらかな丘陵地域となっていて、抜群の景色に惚れ込んで、移住する人もいるようです。
昨日は中途半端にニュースを取り上げてみましたが、やはり勝谷さんに近づけようとすると無理が出てしまい、自分で読んでいても面白くないので、無理のないスタイルで続けていきます。相変わらず「調子に乗るな。お前の書くものは個人のブログ以下だ」というメールを送ってくる人がひとりいてかなりヘコミますが、そんなことは最初から承知しているので、今は気にしないことにしました。「ヨロンが何か書いているな」ぐらいの感じで見ていただけるとありがたいです。
11月からのゲスト寄稿も進めています。このメールでもお馴染みの方々に登場していただきます。気軽に読んでいただけるものと信じていますのでご期待ください。
勝谷さんが書いているときも、様々な感想が寄せられていました。情報提供や好意的な感想はもちろんですが、定番の灘高自慢や元嫁自慢より、首相のお友達自慢や「私に聞きに来なさい」という上から目線での言い方に対する批判というか文句も多かった。不思議なのは、そんな苦情のようなメールが送られてきても、勝谷さんのスタイルは変わらないんですね。意固地なのか、単に鈍感なのか。エゴサーチをするくらいなので、批判に対する耐性はかなり強いのかもしれません。とはいえ、実は自分の評価も相当気にしていることもあります。エゴサーチするのも、気になるからなのかもしれません。
勝谷さんへのメールでは、「誤字脱字をなんとかしろ」というものも多かったです。毎日5千字も書いていれば、多少の誤字が入るのも仕方ないとは思いますが、体調が悪くなると増えるようです。自分で書いた文章の誤字は見つけにくいということもあるのかもしれません。
誤字といえば、昨日の私の文章にもありました。「甘利選対院長」(正確には「甘利選対委員長」)はまだ良いとしても、「三反園知事見たその知事」はヒドいですね。すみません。これは恥ずかしい。最初に「みたぞのちじ」と入れて変換すると「美田園知事」と出てきてしまうので、いろいろ入力を変えて見た痕跡が残ってしまったようです。こればかりは第三者の手を経ている時間的余裕はないので、自分で気をつけるしかありません。
勝谷さんについて、実家で断酒が続けられているのは良いのですが、ほとんど食べようとしないらしく、腹の膨らみも改善されないことから、入院して治療することになりました。入院治療といっても、短期間で、病院食を無理矢理食べさせるようなものなので、何をするということでも無いのですが、とりあえずは次の慶応病院での診察までの措置となります。
タイトルの件、『日刊KATSUYA』はどうかという意見もいただき、まさに『ニッカツ』になるので良さそうだとは思っていますが、まだ考えています。要は、勝谷さん本人が書いたものとそれ以外を分けられればまずは良いので、今日はタイトルに「■」を入れてみました。この印があるのが勝谷さん以外が書いたもので、無い通常のスタイルが勝谷本人が書いたものとなります。
本日の朝日新聞東京版トップは
メルケル氏、与党党首の辞任表明 首相職は21年まで
https://www.asahi.com/articles/ASLBY63Q7LBYUHBI02T.html
読売新聞トップは
外国人労働者、受け入れ拡大了承…自民部会
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20181029-OYT1T50169.html
となっています。
特に外国人労働者受け入れに関しては、気にしている方も多いでしょう。移民政策なのかどうなのか、ということがメインになっていますが、その先は選挙権や少子化対策に繋がります。
11月に取り上げることもあると思います。
今日は、私の自己紹介をさせていただきます。先日書いたこととも一部重複し、全く面白くなく、興味のない方も多いとは思いますが、毎日メールを送るヤツがどんな人間かというのを知っておいていただく必要があると思いました。少し長くなりますが、お付き合いください。
高橋茂(58歳)
■1960年10月9日、長野県上田市生まれ
勝谷さんとは同い年です。
■株式会社世論社、株式会社VoiceJapan代表取締役
株式会社といってもほとんど個人事務所のようなものです。世論社ではこのメール配信やパブリッシング事業を行い、VoiceJapanでは、政治家やNPO、たまに個人のWeb関連のサポートを行っています。国政政党とのつながりはなく、個人とのつながりで仕事しています。知り合いの議員は野党系が多いのですが、自民党にも親しくしている議員がいます。
勝谷さんは「世論社」の取締役で、命名者でもあります。でも出資は一銭もしていません。「会社を作りなよ。俺が名前を考えるから」と言われて作ったのですが、私が「いくら出す?」と聞いたところ「俺は出さない」と言われ、その後何度か「出資するよ」と言われたのですが、そのときは特にお金が必要ではなかったので、「経営に口を出さなければ良いけど」と言うと、「口出すから、じゃあ出資はやめる」というやり取りがありました。
■武蔵大学非常勤講師
社会学部メディア社会学科の非常勤講師を10年ほどしています。「テーマは好きにして良い」と言われているので、最初は「若者政党を作って広報してみよう」から始まり、「USTREAMでライブ配信しよう」「スマホでドキュメンタリーを作ろう」と続いてきて、今は「AIを知って自分のキャリア形成に役立てよう」とうう授業を行っています。
私が出た高校は地元の進学校だったのですが、単純に勉強しなかったために落ちこぼれました。360人の高校で、入学時は30番だったのに、卒業時は330番でした。そのために大学は無名のところになり、お茶ノ水大学に行った同級生を学園祭に呼んだときに、「楽しかった。二流大学でもちゃんとしているのね」と言われたことがいまだにトラウマになっているという有り様です。
それでも大学を卒業し、日立の孫会社に就職しました。特に就職活動はせず、ゼミの先生が「誰か行きたいやつはいるか」と聞いてきたときに思わず手を上げて、普段着で会社に行き、社長に会ったところ、いきなり適正テストをさせられて、研究室に戻ったときには内定が出ていたといういい加減なものでした。その会社では、日立が開発しているデータベースシステムのプログラミングを行いました。
就職して4年ほど経ったときに父が亡くなりました。最初は長野に戻ろうとして『ベルーフ』という技術者系求人誌を見ていたところ、ローランドの求人を見つけました。憧れの会社だったので、思わず応募し、一度は書類選考で落とされましたが、しばらくしてからまた見つけたので、懲りずに応募したところ、試験を受けることになりました。
試験は電子工学、電気工学、機械工学の中からどれかを選ぶというもので、どれも専攻ではなかったのですが、電子工学だったら少しぐらいはわかるだろうと思って受けたところ、結果は0点。
その後の面接で、梯郁太郎社長から「試験は難しかったかな。当社を選んだ理由を聞かせてください」と質問されたので、どうせ落ちるんだし、この際だから思いの丈をぶつけて帰ろうと、ローランドを受けたきっかけを滔々と語りました。
すると、なぜか1次試験は受かってしまい、2次試験の面接も通って、入社が決まりました。
ちなみに、梯郁太郎(故人)さんは、大阪の阿倍野区にある小さな電気屋「カケハシ無線」から一代でローランドを作り上げた人で、2013年にはグラミー賞でテクニカル・グラミー・アワードを受賞しています。個人では初のことでした。
入社時に人事部から「希望する部署はありますか?」と聞かれたので、花形部署の「シンセサイザーを開発したい」と言ったところ、希望の部署に配属されました。今思えば、試験で0点だったのに、よく配属してくれたと思います。
特に仕事もなく暇そうにしていたところ、上司から「暇そうだから、社内の標準音源開発チームに入らない?」と聞かれ、特に断る理由もなかったので入りました。
その後、その社内標準音源に対して、アメリカのMIDI規格を決める団体が「世界標準にしたい」ということで参画し、そこにヤマハも加わって『GeneralMIDI』という楽器間のコントロールを行う世界標準の規格となりました。
そのGeneralMIDIで作られたローランドのGS音源は様々な機器に搭載され、楽器にとどまらず、携帯の着メロやカラオケの音源にもなりました。コンシューマー向けのシンセサイザーや電子ピアノにも入っていったので、私はほぼすべての部署に関わるようになりました。
4年ほど浜松で勤務し、シンセサイザーではやりたかったことはほぼやってしまい、どうしても長野に帰りたくなったので、希望を出して松本にある子会社に異動させてもらいました。子会社といっても、ローランドは他部署に移るくらいの自由さで人材を移動させるので、結構気軽に移れるのです。
松本では、デジタルサンプラーの開発を行いました。着任そうそうひどい風邪をひいてしまい、治ってからも重要な仕事につけなかったので、企画書ばかり書いていたら急遽その企画を立ち上げることになって、開発リーダーとして『MS-1』という小型デジタルサンプラーの開発を行うことになりました。
そのころ、円安の影響で、国内で4万円弱の製品が、アメリカで800ドル位になってしまい、爆発的ヒットとはいかなかったのですが、クラブ音楽系で評価され、新たに「リミックス」という音楽スタイルを生み出したことから、AKAIのMPCというドラムマシンとともに、世界中のクラブにサンブラーが入っていくことになりました。
その後、デジタルサンプラー主体の製品開発プロデューサーとしていくつかの製品を開発していたときに、長野県知事選挙に関わることになります。
もともとは、趣味で安曇野の工芸作家や画家を紹介するホームページを作って運営していたところ、そこで紹介した人たちが、高規格道路の反対運動を始めたために、面白そうだったのでくっついてまわっていたことがきっかけになります。
その活動を通じて、無駄な公共事業の多さや、役所職員の質の低さ、議会議員がバカばかりということを知り、愕然としていたときに「知事選に田中康夫が出るらしい」ということを聞いて、松本の集会に行きました。
そのときは、田中さん自身がまだ選挙に出るということは表明しておらず、ネチネチとした喋り方で印象はあまり良くなかったのですが(田中さん、すみません)、「この人は絶対に高規格道路を作らない」と確信して、応援することにしました。しかし、私はインターネットで手伝うぐらいしかできなかったので、その後全県の勝手連を結ぶメーリングリストを作ったり、勝手連サイトを立ち上げたりして応援しました。これが日本初のネット選挙です。
その選挙を通じて勝谷さんと知り合い、投票日の開票待ち会場で初めて会いました。
その後、私はローランドを退職し、最初は安曇野でネット関連の仕事をしようと思っていたのですが、まだまだ仕事は無く、どうしようかと悩んでいたところ、犬塚直史さんという実業家から連絡があり、彼の仕事を手伝うことになりました。東京、パリ、ニューヨークを結ぶ人材登録・紹介サイトの制作です。まだほとんど例のなかった「ユニコード(UTF)」という文字コードでのサイト開発と、フランス人やアメリカ人とのやり取りを経て、なんとかサイトは完成し、その後犬塚さんと会社をやろうという話になって、東京に出てきて一緒に『アイランドボイス』という会社を立ち上げ、私は取締役となりました。
勝谷さんとは、年に一度か二度、共通の友人たちと飲み会を開くくらいだったのですが、犬塚さんが2004年の参院選で参議院議員となり、2005年に私が独立して自分の会社を立ち上げることになってから、勝谷さんと会う機会はかなり増えることになります。
そして、この『勝谷誠彦のxxな日々。』のメール配信を始めることになるのですが、そこは明日説明します。
では、良い一日を。