2018年3月18日号。<「生きがい」なんてないと私は考える。すがりつくな。ただ生きるな、善く生きよ、のみ>。

  • 日記
  • <内田康夫さん83歳/作家、浅見光彦シリーズ>

 

 3時半起床。
 ときどき地雷を踏む。もちろんわかっていて挑発しているのだが。それだけわが読者の知的レベルと挑発心が強いということであって、自惚れるならば、このような集合知はあまりないのではないか。誇らしい。
 地雷はあらゆるところに埋まっていて、私の知識の間違いを指摘して下さるのから、そもそもの思想が許せんというものまで多種多様だ。とても感謝している。コラムニストなどという商売は、かまってもらってナンボなのである。私の支障、もとい、いや人生の支障であったかも知れないので、このままの過打でもいいのだが、師匠である花田紀凱さんは『週刊文春』が厄介ごとを引き起こすと、いつも嬉しそうに編集部で踊っていた。

 朝日新聞などの「良心的」大マスコミからの問い合わせには「し・り・ま・せん」と踊るのである。もちろん電話などには出ない。「おまえ、頼むよ」のひとことで私が説明させられるのである。そんなもん、自分の担当でもない記事がどうやって出来たのかわからないし、慌てて読むと「これはいくらなんでもヤバいんじゃないか」と感じることもある。とはいえ「デスクといえば親も同じ」(師匠談)何としても弾除けになる。
 この「親」が肉親のそれではなく、極道の世界で言うところの「稼業の親」ではないかと気づいたのは、迂闊なことにも、入社してずいぶんとたってからのことであった。花田さんの横には局長の堤堯さんがいた。よりによって「稼業の世界」でもっとも悪名が高い二人が上司だったのだ。諫めたり止めたりしたのを見たことがない。「花ちゃん、今回も騒ぎ、面白れえなあ」。そして、私に向かって言うのである。「いいか、チンコとトラブルはいじればいじるほどデカくなるんだ。もっと騒ぎにならねえかなあ」。
 私は時にメディアで「アブないひと」とか「異端児」とか言われて、今回も大阪の番組がドタキャンになったのはご存じの通りだが、局や出版社の気持ちはわかる。よ~くわかる。よ~くわかるが、ずっと昔からこういう「風評被害」を立て続けてひとたちがいたのは覚えておいていただきたい(泣)

 これも「来るかなあ」と思ってわざと書いたのだが、昨日の小欄。そもそもタイトルで挑発している。<働くことは「苦痛」ですか?私は今朝もこうして書くことができて、最高に幸せだ>。嫌な奴だねえ。自分でもそう思う。おそらく、地雷を踏むなあと思いながら書いた。ひとが避けて通れないのは、衣食住に性であろうが、それらを支えているのは畢竟、労働なのだ。だが労働についてはフランクに語ることはあまりない。
 「会社の愚痴」は毎晩日本中で言われているが、それは労働そのものを論じてはいない。「どうしてオレ、働かなきゃいけないんだろう」「そうしないと食えないからだよ」でおしまい。ささやかな石を投げると、多くのひとが「なんで自分は働いているのだろう」「自分の労働は幸せなのだろうか」と考えてくれたようで。
 このテーマ、大マスコミではなかなか扱わないのだ。まずそこで働いているひとたちが、契約もふくめて、何らかの形で労働者としてシステムに取り込まれている。反骨のひとなんて、むしろ労働組合(苦笑)で労働ということに向かい合っている。カチンと来た読者の方もずいぶんとおられて、その反応のバリエーションに勉強になった。「好きで働いていると思っているのか」は意外と少なくて「あなたは守るべきものがないから、そういうことが言えるんだ」がやや多かった。さすがは賢明なる読者である。その通りだ。敢えて言うと、順序が逆というか、かかる境地を目指して、私はすべて捨ててきた。

 「働くことが愉しい」という仕事を得ているひとは幸せである。今日のような日曜日の新聞には「生きがいを見つけた」といった記事があふれている。決して大企業ではない。個人が手に職を持っているか、ちいさな組織に属しているか。書いているおまえが、世界有数の大組織の大金持ちじゃいか、朝日新聞、などとはもう言わない。
 でもね。ここからコラムニストは意地悪を言う。本当に幸せですか。満たされていますか。不自由はしていませんか。たまたま朝日を例にとったが、テレビでもウェブでもそういう「幸せな話」はあふれている。なにしろ意地悪であり、個人事業者であり、飲食店のオーナーなので、頭の中で素早くさまざまなコスト計算をする。
 「生きがいを見つけた」ひとたちの多くは地方に住む。それがまた美談のようになっているが、理由はひとつ、生活費が安いからだ。よほど職人としてその地に愛着があり、その地でなければいけないというひとは、どのくらいいるのだろうか。けれども、番組は美しい話として物語る。「地方創生」もきっと合致するのだろう。皮肉で言っているのではない。地域興しのためにさんざん動いてきた私だから見えるものがある。
 この日記の読者はやはり同世代が多いが「働くこと」のフィニッシュに向かっていろいろと考えるときになっていることが、いただくお便りからわかる。みんなで愉しく、談論風発いろいろとやりあってみませんか。「お愉しみはこれからだ」だと私は考える。その「お愉しみ」は広告が入りそうな「豊かなシルバー世代」の企業に騙されている大マスコミは教えてくれない。

 「自分に何ができるか」だ。これは、私が蛇蝎のごとく嫌う「自分さがし」ではないと、もうお分かりだろう。さきほどの「生きがいをみつけた」地方移住のひとびとは「自分さがし」に騙されてきたように、私には見えて、気の毒だ。
 正直に言うと、私もゆらいだ。だから軽井沢に家などを建ててしまったのである。「やっちまったあ」は忘れることだ。旧軽井沢の1000坪を超える土地に何部屋あるかわからないジャグジーつきの家を建てて、月々の維持費はひょっとすると東京のマンションとかわらない。人を入れないといけないので。その東京のマンションでいま、私は「赤いきつね」が出来上がるのを待ちながらこの稿を書いている。いま、コンビニ限定で「赤いきつね」にはお揚げさんが2枚入っていて、とってもお得。朝から豊かな気持ちになる。
 頭脳や技術をもって「働くことは愉しい」機会をもとめて大和島根に散っていくひとたちを私はもちろん評価するし、いささか羨ましくもある。けれども、そういうスローガンだけが先走る危うさをもっとも知っているのは、それぞれの地方自治体で地道に頑張っている公務員たちだ。
 これまでの仕事のからみもあって、私は知友を多くもつ。地方自治体の幹部公務員は、地元で銀行と並んで、最高のエリートである。いちどは大学で東京に出て、そこから帰ってくるひとが多い。彼ら彼女らと話していると「地方の時代だとか、地方創生だとか言って、思いつきで来られてもなあ」となのるは、当然のことだ。
 安倍晋三首相の地元は昭恵さんともよく歩いてきたので、このお二人が地方の空気がわかっているとは考える。問題は、霞が関の官僚だ。同じ公務員でも霞が関のそれと、地方のそれとは、将官と下士官くらいの意識の違いがある。たとえではなく、明治政府いらいに作られたヒエラルキーは平成の世になっても、いささかも揺るぎないのである。これまた、歩いて実感しないとわかるまい。
 これまでの組織での生活をリタイアされたひとびとの、地域での活躍は、日本国のそれこそGDPを押し上げる効果があるだろう。私の仕事に定年はないが、少しはそういう意識を持つようにしている。せめてもの、国家への恩返しである。

 安全保障のために、私は国内何カ所かにあるねぐらをできるだけ明かさないようにしている。軽井沢なんてもうとうにダメだけれどもね。「センセイの家、通り道だけど、見ていく?」とか駅前で乗ったタクシーの運転手が言うらしい。見てもらってもどうということもない陋屋なのだが。
 不便なのは郵便物であって、これは番町の事務所に一括して届けてもらう。それをマネジャーのT-1君がチェックして私に渡してくれるのだが、彼も私以外の仕事で(をいをい)何かと忙しくて、そうリアルタイムではない。昨日受け取ったものの中に、差出人『内閣総理大臣 安倍晋三』があって、本当に大切なことならばこういうカタチではこないので何かイベントだろうとあけてみると、毎年恒例の「桜を見る会」であった。
 なかなか安倍さんの時間をわざわざ作ってもらうのも申し訳ないので、2分3分でも、こういう機会に顔をあわせて懸案について話すのは、毎年便利だ。日にちは…と見ると、4月21日とある。今年は開花が早そうなので、終わっているかなあなどと、考えつつ、なにかひっかかる。何だったっけ。そこで突然、届いていたばかりの『迂闊屋』を思い出したのだ。
 <テーマ「これからの「政治」の話をしよう」
 昨年のブックオブザイヤー2017・選挙部門大賞に輝いた『64万人の魂 兵庫県知事選記』の著者でもあるコラムニスト・勝谷誠彦氏を講師に迎え、同書最大のキーワードでもある「政治哲学」、そして民主主義の「あるべき姿」について皆様と一緒に考えていきます。>
 そりゃ、皆様と一緒に考えていきたいけれども、国政についても安倍さんと考えたいわけであって。時刻は14時から16時とあるから、これはもろにバッティングかと青くなったが、改めて招待状を見てホッ。午前8時半から10時半までなのですね。思い出せば、毎年そうであった。場所は新宿御苑だ。「ご夫妻おそろいにて御来観下さりますようご案内申し上げます」なので、これまた毎年のように、元妻にして作家の森谷明子先生におたずねすると「ごめんねえ。その日は仕事があって」と。朝の8時半から仕事かよ、などというのはぐっと呑みこんで。私なんぞ比較ならない売れっ子作家は違うのであろう。
 嫌らしいことを。こういう時「配偶者」とあれば、誰かを同伴しても見逃される。「夫婦」と書かれると。さすがは首相と近接する場である。「元夫婦」でも微妙だったかも。へたすると、公安あたりはきちんと身元を調べていたりしそうだ。

 あっ。今日はなんと、記事などの引用が皆無ではないか。リンク先のあの色がない。なんだか、書くのに長い時間がかかったなあとは思っていた。配信も、やや遅いでしょ。でも10時まではガマンしてね。
 記事などを引くというのは難しいところだ。「字数稼げるな」とは私は思わない。ひとことでも余計に書きたいというビョーキのひとだからだ。かといって、記事の内容をあらためて自分でダイジェストしようとも考えない。その記事は記事で、そこが持っている空気も「報道」だからである。だから毎朝、いろいろと悩みながら引いている。
 引く記事がないというのは、大きな天災や事故がなかったということで、慶賀に耐えない。逆に記者、特に見出しをつける整理部はこういう日はつらい。朝日新聞をおとりの方はごらんなさい。こんなに小さな級数の1面トップなんて、滅多にないから(笑)。

 内田康夫さんが亡くなられた。最近、こういう記述ばっかりだな。何度でも書くが。
 <内田康夫さん83歳/作家、浅見光彦シリーズ>
 https://mainichi.jp/articles/20180318/k00/00m/040/112000c
 何といっても「軽井沢の作家」だ。語りつくせない。心からご冥福をお祈りする。