『天国のいちばん底』第二百九十八回

「よど号の話をされると、これまた敵ながら私の心も痛むなあ」
金山がため息をついた。
「それが、あなたたちの世代なのよ。何を言われても叱られているみたいに感じるんでしょ?」
弓子がからかう。
「面白いですよね」
ボクチャンが思慮深げに加わった。
「北朝鮮に逃亡したよど号犯、自滅していった連合赤軍、それにパレスチナに拠点をうつした日本赤軍、それぞれが別の道を行った。まともに国内で警察と闘ったのは、連合赤軍だけということになりますかね」
「そうだね。こう並べてみると、確かに君たちが言う通りだ。真剣さというものが根本的に欠けている。どうして奴らは革命ができるなんて思ったんだろうね」
「ほかの国でできたからやろ」
指摘してみたものの、如月はつまらなさそうだ。
「じゃあ、なぜ日本ではできなかったのだろう。言っておくけれども、私たち日学同なんかが頑張ったからではないよ。そのことは自分がいちばん知っている」
「アホか」
「姫!」
ボクチャンの叱声にも関わらず、如月は心底気の毒そうな顔をした。
「ほんまに、わからへんの? おっちゃん」
うっ、と金山がつまる。
「思想的に脆弱だったとか……」
プッ。
弓子が噴き出したのである。
「その答え、ひょっとすると私にはわかっているかも知れないわ」
金山がすがるように見るが、妻は黙っている。やがて。
「私、それを伯父さんから聞いたのよ」
「伯父さんて、さっき話していたあの特攻隊帰りの……」
「そう。あなたはぼーっとしていると評したけどね。彼は、ぜったいに学生たちのくわだてはうまく行かないって断言していたの」
「そやろな」
如月がにやりとした。
「何だろう」
金山は思案投げ首だ。
「まさか特攻精神じゃないよね……」
「それもきっと足りなかったんだろうけど」
弓子は明らかに夫をからかっている。
「おっちゃん、むしろさっきええとこまで行ったんやで」
指先で如月はテーブルを打った。
「三島由紀夫のこと言うたやん」
「ああ。彼とそのグループがあの時代の中でいちばん真剣だったんじゃないかと、思ったんだ」
「ボクでも知ってるで。三島とその部下たちが何をしとったかを」
「楯の会やな」
ボクチャンが補足する。
「楯の会……。ああ、自衛隊への体験入隊かなあ」
「それ」
如月が指を突き出す。
「おっちゃんの昔の悪い仲間は知らんけど、おっちゃんらから少し前の世代からの日本人は、銃なんて持ったこともないやん」
「ああ」
金山が頷いた。
「そんなんが鉄砲もってる警察や軍隊を相手に、革命できるわけないやん。常識で考えて、わかるやろ」
「そうやね」
ボクチャンはレッサーの顔を思い出していた。彼の口癖は、
「戦後の日本人は、決定的に軍事の知識と体験が欠落しとる」
というものだ。時に真剣な顔で、
「そんな国、世界中にあらへんで。ひょっとすると、これは将来、とんでもないイカンことになるかも知れへんで」
と言い出して、殿下から、
「おまえ、そんな将来のことよりも、とりあえず次の試験について自分の頭の上の蠅を追えや」
と、おそらくレッサーとしてはそのまま本人に返したいような皮肉を浴びせられていたものだ。
「『鉄砲もったこともない洟垂れが、何をするずら』って、伯父はぶつぶつ言っていたの。人を殺したことも、その覚悟もない連中には何もできないって」
う〜ん、と金山は唸った。
「連合赤軍のリンチを除けば、あれだけあちこちで衝突していて、学生側で亡くなったのは樺美智子さんだけですからね」
「ああ、あれは大騒ぎだった。対立していた私たちは極悪人のように言われたんだ」
金山が回顧する。
「知ってた? 樺さんて、姫や加藤君の地元の出身なのよ」
「えっ?」
ボクチャンは不意をつかれた。栗之介(くりのすけ)との論争の中で、六〇年と七〇年の安保については相当勉強したつもりだったのだが、思わぬ見落としである。いつもイデオロギーに偏りがちな言い合いを、ボクチャンはとっさに反省した。
「芦屋のお嬢様。確か山手中学って言ったかしら」
「ひえっ!」
今度の素っ頓狂な声は如月だ。
「うちの近所やん」
もちろんそこに行くつもりは如月は毛頭なかったのだろうが。
「そこから神戸高校、そして東大に進んだの。同じ女性だから、私たちはひとごとじゃなかったのよね。だからみんなでそんな情報も交換したわ」
「確か、お父さんは大学教授だったよな。ずいぶんと自分なんかと育ちが違うと思ったもんだ」
金山が首を振る。
「やっぱり、銃口から革命を生むようなタイプじゃないですね。むしろ、そんなお嬢さんがあんな場所に巻き込まれていったことの方が驚きです」
樺美智子という「歴史上」の人物が、ようやくボクチャンの中でしっかりとした姿を持った。だから物語は大切なのだ。
「銃口から革命と言うと毛沢東だけど、なんと樺さん死亡のニュースが世界に伝わった時に、毛沢東がコメントを出したのよ」
「おいおい、君は妙なことを知っているな」
金山が妻にあきれた。ひょっとすると、そういう話題について、これまでの二人はほとんど話してこなかったのではないかとボクチャンは思う。
「今でも覚えているわ。確か『世界史に名前を刻まれる、日本の英雄になった』って言ったのよ」
ボクチャンは驚いた。当時、それこそ世界的な偉人とされた毛沢東がじきじき名前をあげたとすれば、むしろあべこべにそのことによって日本の少女は英雄になったと言えるのではないか。
「ある意味で、戦後の日本は秀吉の刀狩りをもういちど行ったみたいなものね」
弓子は考え深げだ。
「兵農分離ですか?」
弓子の専門が歴史であることをボクチャンは思い出す。
「そう。多くの国では、若者はいちどは徴兵制を体験するじゃない。そこで銃の扱いも、武器の怖さも覚えるでしょう。戦後の日本人は、まったくそんな経験を持たなくなってしまったわ」
「アメリカなんか、軍隊に入らんでも、そこらじゅうに銃があるで」
またひとつ、白菜を口に放り込む如月。
「そうなんだよ。アンポ反対、平和平和と叫ぶあっち側の学生どもに対して、私もよく説いたものだ。おまえらが理想とか言っている、永世中立のスイスは、各家庭に自動小銃が置かれていて、もし侵略を受けたら、国民の誰もがそれを手に立ち上がるんだって。そのための訓練も日々受けているってね」
「戦後の日本にとって秀吉はアメリカだったわね」
「アメリカが刀狩りをした、と」
ボクチャンにはだいたい弓子が主張したいことがわかってきた。
「秀吉が刀をとりあげたように、アメリカは日本の軍備を解体した。そのあと朝鮮戦争がはじまって一部を復活したものの、武器は警察予備隊、のちの自衛隊の中に完全に押し込めたのよね」
「アメリカは怖かったんじゃないでしょうかね」
頭の中で、ボクチャンは幕末から先の戦争までの歴史をひもとく。
「黒船でやって来たら、そこらじゅうにカミソリみたいな切れ味鋭い刃物を腰に差した連中がいて、攘夷だ、異人切りだって言っている。太平洋戦争では、玉砕だ神風だとわめいて、突っ込んでくる。もうあの連中には武器を持たすまいと固く決めたんじゃないでしょうか」
「ほんなら、日本て世界でもっとも革命なんて起こしようがない国やん。おっちゃんらの世代は、なんでそんなアホなこと考えたんやろ」
如月はあきれたようだ。
「それに……」
政治向きのことについて、少年が長口舌をするのは珍しいとボクチャンは驚いた。
「アンポ反対くらいはボクでも知ってるけど、アメリカ追い出して、ほんならどうするつもりやったんやろ。自衛隊だけやったらあかんから、米軍がおったわけやろ? それを追い出したら、もっと自衛隊を強くするつもりやったんやろか。それとも、戦前みたいに徴兵制を復活させるんか。それって、おっちゃんのケンカ相手がいちばん嫌っとった軍国主義なんとちゃうん?」
「姫、いちいちごもっとも」
頭をかく金山の癖が頻繁になっている。
「おそらく彼らは、憲法九条を奉じていれば、どこの国も攻めてこないと信じていたんだろうね」
「アホちゃうか」
如月の大声が響く。
「それ、ボクシングで言うたらノーガードやん。『あしたのジョー』の中に、だらんと両手を下げて相手を誘ういうシーンがあったけど、あれはあそこかから繰り出すクロスカウンターがあってのことや。それも持っとらんでガード下げたら一発でやられんで」
「サンドバッグみたいにボコボコにされるやろね」
いちおう拳闘部員であるボクチャンが同意すると、
「ガードしとっても、常にジャブを繰り出して、相手の接近を阻まなあかん。ガードだけやったら、やがて相手のプレッシャーに負けるんや」
シュッ。
電光のような左手を如月は繰り出した。
「それは私にもよくわかるよ。今だって、共産主義国には日本はやられているじゃないか。ソ連が偵察機をしょっちゅう飛ばして来るのは、まさにそのジャブだよね」
金山としては論をたてたつもりだったのだろうが、如月は聞き流した。
「おっちゃん、さっき真剣さ言うたけど、それ以前にアホやったんちゃうん」
「姫!」
「おっちゃんが、とは言うてへんで。おっちゃんが相手しとった連中や」
「いや、それを奴らに気づかせることができなかったというのは、こちらも姫が言うところのアホだったんだろうね」
「こうなると、三島さんのリアリストぶりが際立ちますね」
ボクチャンは唸った。三島由紀夫の文学に対してと同時に、その決起にもボクチャンはかねてから畏敬の念を抱いてきた。
だがそれがいま、より深く理解できたように思われたのだ。
「うん。まず三島は自分の部下たちに銃をさわらせていた。現実に殺し合いとしての戦いというものを唯一理解していたのは楯の会だったかも知れないね」
どこか金山が恥ずかしそうなのに気づいたボクチャンだったが、指摘するのは遠慮する。しかし、如月は容赦ない。
「ほんなら、なんでおっちゃんらは、自衛隊に体験入隊して、ほんまの戦争の仕方を覚えへんかったん?」
金山は腕を組んだ。
しばらく彼が考えている間、誰もが杯に手を伸ばすことすら遠慮する空気が支配した。
「むしろ、避けていた」
苦しいうめき声だった。
「いや、それは正直じゃないな。私たちの雇い主が、そうしたものと接近することを絶対にさせなかったんだ」
「雇い主、いうたら、まあ言ってみれば当時の政府やな。自民党の」
金山にくらべて如月の声はあまりにかろやかだ。
「そう。おそらくそうした提案をした仲間もいたと思う。三島先生に殉じた、森田必勝烈士は、もともと日学同におられたんだよ。しかし、それを辞めて楯の会に入られた。いま、あらためて烈士のお気持ちがわかるよ」
また口調がかわった、とボクチャンは思う。この山奥の飄々とした宿の主人の口から出る、烈士という言葉。そして敬語。しかし、それは決して違和感なく耳に入ってきた。
「森田烈士は日学同の創設者のひとりだ。それが飛び出された理由には、もちろん三島先生の魅力もあっただろうが、今の話を振り返れば、日学同の本質を見抜いてしまわれたのだろうね。結局は、命をかけて立ち上がるつもりはない、と」
こうなるとボクチャンも黙ってはいられない。三島好きがこうじて作家の事績をいろいろと調べたのはもちろんだが、近くにはレッサーという、歩く軍事辞典がいた。ヒトラーを崇拝するレッサーが三島由紀夫のことも尊敬しているのは、ボクチャンにはちょっと迷惑なところがあったが、楯の会の制服や制帽などを思い起こすと、やはり両者にはどこか相通じるところがあったのかな、とも思う。おそらく三島も意識しないままに、美学やファッションの点において。
「森田さんは……」
烈士、と言おうかと思ったが、如月の何かを期待しているようないたずら顔を見てやめた。どういうからかいの材料にされるか知れたものではない。
「楯の会に入ってからも、同様な壁につきあたったとボクは思います。何度も三島さんや周囲にいる自衛隊員たちに、クーデターの構想を持ちかけるんですが、その都度とめられている。三島さんは国会を包囲して憲法改正を迫るという計画を持っていたんですが、最終的には武器がないのが問題でした」
弓子を見る。
「だから、弓子さんの『刀狩り』という考え方は、実はまことに正鵠を射ているのかもしれない。三島さんたちですら、自衛隊の演習地内では銃を手にできても、決起する武器は持てなかった。誰かが徹底的に刀狩りをしたということが、二度にわたる安保闘争をああいう形にしたんでしょうね」
我ながら、どうして今夜はこんなに頭が回るんだ、とボクチャンは驚いていた。
どうも環境のせいらしい、と感じる。程よい酒、程よい会話。いつものように殿下が暴れ始めて仲間とグズグズになっていくのではない空間。
金山夫妻という大人がいるからなのだろうか。
しかし何よりも、この場を心地よいサロンにしているのが如月の存在であることを、あとの三人はよくわかっていた。少年がかもしだす貴族的な雰囲気が、全員の振舞いをせいいっぱい知的で優雅にしていることを。
「刀をとられたあとの農民て、文句があった時はどないしたっけ?」
堤(つつみ)先生の授業で如月は知っているはずだ。しかし敢えて弓子に言わせたいのだろう。
「一揆ね。でもこれは命がけ。必ず鎮圧されるし、そうなると首謀者は処刑されたわ」
「暴れるにも刀があらへんやん」
如月の口調がちょっと物憂げになっている。彼の酔いには波があることをボクチャンは知っていた。少し眠い時期にきているのかも知れない。
「だから、鍬や鎌よ。あるいは竹槍。幟のかわりにむしろ旗を立てたわ」
クッ。
少し下を向くと如月は笑った。
「おっちゃんらよりも、根性入ってるやん。おっちゃんら、刃物は使えへんかったし、つかまっても首謀者は死刑にならへん」
「あっちの学生と一緒にしてほしくないなあ。任侠系からの応援の連中は、ドスくらいは懐に呑んでいたよ」
「そやけど、実際に刺したことはほとんどないやろ?」
「ま、そ、そうだけど」
如月が真顔になる。
「それは、ほんまに刺して殺したら、殺人罪になるからや。つまり、体制を守れいうておっちゃんらを雇っていた連中も、法律的にはちっとも応援してくれてなかったいうこととちゃうん」
ボクチャンは目を見張った。政治や経済、そして歴史にもさほどの興味を持っているとは思えない如月が、目もとを赤くしながらほとんどコトの本質を突いているではないか。
「そうや」
思わず関西弁に戻る。
「戦時法でもないし、戒厳令でもない。なるほど、三島さんが治安出動をあれほど願ったのは、そこのところを根底から覆したかったんやな。体制側の真剣さについて、三島さんは迫ったんや」。
「ボクらはいったい何をしたのだろう」
金山が呆然と呟いた。
私、と言い続けてきた人称がボクになったことに、ボクチャンは彼がいま、往時の空気の中に立っていることを知った。
(つづく)