おはようございます。ヨロンです。
勝谷さんですが、昨日東京の慶応大学病院から尼崎の実家に移りました。弟の友宏さんが東京に用事があり、状況を見に病院に寄ることにはなっていたのですが、退院のタイミングが早まり、昨日一緒に飛行機で尼崎に帰りました。
急なことだったので、心配のメールをいくつもいただいていますし、ここでは正直にお伝えしなければならないと思っているのですが、転院の理由があまりにもバカバカしすぎて書けません。ここは本人がどのように説明するか見てから、補足を入れます。昼にでもメールが届いたら、内容によっては明日に回さずにそのままお送りするので、驚かないでくださいね。その前に電話が来そうですが。「なんだよお、バカバカしいって。俺は病気なんだから嘘を書くなよお」という感じで。
肝臓や他の臓器に関しては、今のところ心配することは無さそうです。どうにもならないくらい悪ければ慶応病院から移すことは考えられないので、実家に戻るということは、集中治療が必要なほどではないということです。末期癌の患者で、最期に自宅に戻るということはありますが、勝谷さんに癌は無いですし、肝炎や肝硬変のようなものも無いので、そこも心配ないそうです。
このまま酒を断って栄養を摂っていれば良くなるのです。今は結構キツそうだけど、それでも8月の入院時よりは良くなっている。自分で歩けるし、会話も一応しっかりできます。近い部分の状況認識が甘くなっていたり、話していて時々つじつまが合わなくなることもありますが、この先日常生活に戻れる可能性が無いわけではありません。
実家にいるのは数日で、そこからまた別の病院に移ることになるようですが、しっかりと自分を律して、一日も早く完全復活できるように頑張ってもらいたいと思っています。
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今日は、何と言ってもこのニュースですね。
<2025年万博、大阪で開催 ロシア、アゼルバイジャン破る>
https://www.sankei.com/world/news/181124/wor1811240002-n1.html
<2025年国際博覧会(万博)の開催地を決める博覧会国際事務局(BIE)の総会が23日、パリで開かれ、加盟国による投票の結果、大阪誘致を掲げた日本がロシア(エカテリンブルク)、アゼルバイジャン(バクー)を破り、開催地に選ばれた。日本での大規模万博は1970年の大阪、2005年の愛知以来、3度目となる。>
昨年の兵庫県知事選挙では勝谷さんが政策に挙げていたので、近々本人が思いの丈を滔々と綴ると思います。何はともあれ良かった。
万博といえば1970年の大阪万博で、2005年の愛知万博は「ああ、そういえばやっていたな」というくらいなのですが、ここは世代によってかなり感想が異なるでしょう。
私は小学4年生。勝谷少年もそうですね。私の実家は長野県上田市だったので、父とふたりで東京経由で初の大阪に行きました。初めての新幹線。初めての大阪。初めてのプロ野球観戦。それらは、あまりにも鮮烈な思い出として、はっきりと脳に刻み込まれています。富士山も初めてだったな。
万博ではもちろんアメリカ館の『月の石』を見ましたが、一番印象に残っているのはIBM館で見たコンピュータでした。コンピュータと言っても、画面に4分割の画が現れて、そのどれかを選ぶと次の物語に進んでいくだけのものでしたが、未来に触れているようでドキドキしました。日本館、日立館、東芝館、ソ連館……聞いたこともないような国のパビリオン。それこそボロボロになるくらいガイドブックを読みました。この思い出話を書くだけで、何日分にもなりますね。みなさんはどうでしょうか。
万博の話題ではありませんが、大阪そのものの印象も強かった。父が専売公社に勤めていたので、最初の日だけ専売公社の宿泊所に泊まり、翌日からは大阪でタクシーの運転手をしていた叔父(母の弟)のアパートに泊めてもらいました。たぶん6畳一間だったと思います。
おじちゃんは、テレビでよく見た「大阪のおっちゃん」といった雰囲気で、いつも腹巻きをしていて、そこに長財布を入れていました。デパートに行って「しげる、何でもこおたる」と言っておもちゃを買ってくれました。レジで「ねえちゃん、なんぼや」と腹巻きから長財布を取り出したシーンも鮮烈に覚えています。夜は梅田の飲み屋街に連れて行かれ、タバコの煙がもうもうとしていた店で蕎麦を食べました。
そのとき、初めてプロ野球を観ました。甲子園球場で行われた『阪神ー巨人』戦。一番好きだった王選手が2ランホームランを打って勝ったことや、投手が村山実対高橋一三で、これも大好きな選手だったので、はっきりと覚えていました。
次に大阪に行ったのは社会人になってから。ローランドに入ってからなので20年後になります。それまでは、大阪といえば万博での強烈な印象に、テレビで見る漫才や新喜劇のイメージしか無かったので、梅田のお洒落な阪急本店を見たときは「これが大阪か!」と驚きました。自分の中の大阪とは大きくイメージが異なっていたのです。電車のアナウンスは標準語だったし、腹巻きして長財布を入れている大阪のおっちゃんは全然いなかった。
大阪のみなさん、ごめんなさい。先日の『KATSUYA Voice』で、勝谷さんが横山ノック氏を知事にした大阪人について語っていて、それを「バカにされた」と感じた大阪の読者から「東京だって青島幸男とかいるではないか。大阪を馬鹿にするな。解約を決めました」とメールが来ましたが、それはショークです。関西弁で言うと「ただのシャレや」ということです。私に限らず、大阪の印象はそのようなものではなかったでしょうか。
2025年。今の大阪がどのように発信されるのか、非常に興味があります。2005年の愛知万博『愛・地球博』は、目標の1500万人を大きく上回り、2204万人の入場者がありました。しかし、万博といえば今でも『大阪万博』ですよね。他に大阪の花博(国際花と緑の博覧会)とか、沖縄海洋博、つくば万博(国際科学技術博覧会)などもありましたが、どれも興行的に失敗したり、記憶に残っていなかったりします。
2025年の大阪万博は、「記憶に残る」万博となってほしいと思います。1970年は「こんにちは。こんにちは。世界の国から」でしたけど、今度はどうなるのでしょうか。
すみません。私の思い出話なんかをダラダラと。みなさんの思い出話はどうでしょうか。
では、良い週末を。