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3時起床。東京に出てきた。
自由律俳句の巨星、尾崎放哉のことは、ずっとあまり好きではなかった。そもそもご存じのように、私は頑固なほど定型詩にこだわる方であって、五七五を崩していいというなら、なんでもありじゃんと。戦後になって左巻きっぽい「進歩的なかたがた」がそうしたものを推したのにも反発した。西行から芭蕉まで、厳しい「しばり」の中で感性を磨いてきたのである。近現代文学の中にもそれはどっしりと生きていて、私のようなバッタもんの文章でも、どこかに遺伝子として入り込んでいる。最近の素人さんはともかく、作家と称するひとたちの随筆などが読みにくいのは、この韻律の教育をすっ飛ばしているからだ。教育って、誰が教えるものでもなく、自分で学ぶことなのだが。
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